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平川克美『言葉が鍛えられる場所 思考する身体に触れるための18章』

☆mediopos3748(2025.2.22.)

平川克美『言葉が鍛えられる場所』は

「はじめに」の章題が
「四十年前の自分におとしまえをつける」
となっているように

昔読んでいた詩集や評論を再読しながら
その読みが歳月を経て変わり
「いったいわたしは何を読んでいたのだろうか」と
「若年の頃の自分に、おとしまえを」つける・・・
といったことが意図されているようだ

「おとしまえをつける」というのは
少々大袈裟に感じられもするが
その「四十年」という経過のなかで
「言葉」そのもののとらえかたが
ある意味でコペルニクス的転回している
ということでもあるだろう

タイトルでも表現されているように
「言葉が鍛えられるのは、ほとんどの場合、
言葉が通じない場所において」であり

言葉は何かを指示したり明らかにするよりは
むしろ隠蔽することが
言葉の本来の役割であるかのように感じられたりもする

そのように「鍛えられた」言葉においてこそ
「言葉の内容よりも、ヴォイスを聴く」ことが
できるようになり

「言葉というものが、
単なる情報交換の道具であることを超えて、
複雑な色合いや、含みを持って耀き出すことがある」
ということが「四十年」を経て感得されるようになった・・・

本書ではさまざまな詩が引かれているが
そのなかから三つほどとりあげ
それぞれの視点を見ていくことにしたい
(詩については引用部分参照)

小池昌代「永遠に来ないバス」では
「見えないものを見るという経験」がもたらされている

それは時間であり
「わたしたちが生きている世界」である

その意味において
「鍛えられた言葉は、いつも、見えるもの、
存在、充足、正確さというものの背後に、
見えないもの、不在、欠落、遅れを導き入れ」ることで
「「いま・ここ」の世界は、
「いまではない・ここではない」世界によって
成り立っていることを教えてくれ」る

安水稔和「言葉」では
「どんなに丁寧に、注意深く、条理を尽くしても、
言葉はいつも不完全なものであり、口を衝いて出た瞬間に、
嘘になってしまう」から
「政治家の対極にある場所から言葉を発する者」である詩人は
「言葉を最も大切にしている者」でありながら
「言葉を信じられない者であり、それゆえに、
その行方をどこまでも探し求める者」であることが示唆されている

また谷川俊太郎の「鳥羽」には

   本当のことを云おうか
   詩人のふりはしているが
   私は詩人ではない

と世界を初めて分節するような
「未生の言語」からの言葉がある

ある意味において
詩あるいは詩人というのは
自己矛盾的存在だといえるだろう

ほんとうの言葉は常に「未生」である
言葉にしたとたんにそれは「不完全」で「嘘」になる

それは「詩」のようではあるが「詩」ではない
「詩」は永遠の「未生」の言葉でしかなく
「詩人のふり」はできるが「詩人」ではありえないのだ

「詩」のようなものは
見えないものを見るように
わたしたちを導いてくれるが

その言葉は表現された言葉そのものではなく
聴くことのできない言葉を聴きとる
「ヴォイス」へとひらかれているといえるのだろう

■平川克美『言葉が鍛えられる場所 
      思考する身体に触れるための18章』
 (大和書房 2016/5)
■小池昌代『永遠に来ないバス』(思潮社 1997/5)
■『安水稔和詩集』(現代詩文庫21 思潮社 1969/1)
■『谷川俊太郎詩集』(現代詩文庫27 思潮社 1969/11)

**(四十年前の自分におとしまえをつける―はじめに)

「本書が、これまで書いてきたものと違うのは「言葉」について、強いこだわりを持って書いているということです。そして、「言葉」が指示しているものやことがらの意味についてというよりは、「言葉」が隠蔽しようとしているものが何であるのかについて書いてみようと思ったのです。」

「本書では、わたしの好きな詩をいくつか、ご紹介させていただきました。取り上げた詩人は、石原吉郎、黒田喜夫、鮎川信夫、吉本隆明、谷川俊太郎といった戦後詩人が中心なのですが、清水哲男、吉野弘、小池昌代といった詩人の作品にも言及しています。」

「今のわたしが、どんな詩の、どんな言葉に惹かれたのか、それは何故なのか、そしてそれが何を意味しているのかについて、自由に綴ってみたいという思いをずっと抱いていましたが、本書はそのささやかな願いを叶えてくれました。わたしは、なんだか若年の頃の自分に、おとしまえをつけたような気分になっているのです。」

**(見えるものと見えないもの――鍛えられた言葉)

「言葉が鍛えられるとか、どういうことなのでしょうか。あるいは、鍛えられた言葉とはどのような言葉なのでしょうか。

 それを一言で説明することはできません。わたしたちは、日常の生活の中でも、小説や詩集の中でも、とき折、ありふれた言葉なのに、ずしりと重さを感じたり、いつまでも心に残ったりするという経験をします。ひとつの言葉の前で立ち止まり、その言葉の周囲に浮かび上がる風景の中に、特別な意味が隠されているような気持ちになることもあります。

  橋の向こうからみどりのきれはしが
  どんどんふくらんでバスになって走ってくる
  待ち続けたきつい目をほっとほどいて
  五人、六人が停留所へ寄る
  六人、七人、首をたれて乗車する
  待ち続けたものが来ることはふしぎだ
  来ないものを待つことがわたしの仕事だから
  (小池昌代「永遠に来ないバス」部分 詩集『永遠に来ないバス』所収)」

「この詩は、まったくありふれた日常的な光景の描写であり、平易な言葉が、無理なく重ねられているだけなのですが、そうすることで、小池昌代という詩人は見えないものを見るという経験をわたしにもたらしてくれていることに気が付きます。

 見えないもの、それは時間なのですが、詩人が詩人になるのは、見えないものが見えるときなのかもしれません。

 でも、見えないものが見えるだけでは、ひとは詩人にはなりません。見えないものを、他人にも見させることができること、つまりは、見えないものを見えるように表現する奇術を使うことで、詩人になるのでしょう。」

「見えないものが時間だけではありません。わたしたちが生きている世界は、まさに見えないものに囲まれているのですが、通常はそういったものを見ようとはしないわけです。」

「鍛えられた言葉は、いつも、見えるもの、存在、充足、正確さというものの背後に、見えないもの、不在、欠落、遅れを導き入れるのです。そうすることによって、「いま・ここ」の世界は、「いまではない・ここではない」世界によって成り立っていることを教えてくれます。」

**(愚劣さに満ちた世界で、絶望を語る――言葉への懐疑)

「詩人も批評家も、自らの言葉を信用して作品を書いているように思われるかもしれません。しかし、ことはそれほど単純でもなければ、善意に満ちたものでもありません。

 自分の言葉が信用できないことは、批評家であるために必要なことなのかもしれないと思うことがしばしばあるのです。」

**(嘘――後ろめたさという制御装置)

「二〇二〇年のオリンピック招致のプレゼンテーションを見ていて、気持ちが沈んでいったのを思い出します。わたしの思いをそのまま言葉にすればこうなります。

「なんなのだ、この自分自慢と媚態は」」

「嘘をつかない人間はいないし、時に嘘もまた必要な場合があるでしょう。

 ですが、(・・・)自分が嘘をついているということに対する後ろめたさはどこかに残るものです。

 この後ろめたさが、どこからくるのかはよくわからないのですが、後ろめたいと思う気持ちが、人間に本来備わった制御装置であり、人間が社会を公正に築いていくためには、どうしても必要なものではないかと思うのです。」

「詩人とは政治家の対極にある場所から言葉を発する者です。ひとつの言葉に、自らの全重量を載せるようにして、言葉を紡ぎ出そうとするもの。そして、どんなに丁寧に、注意深く、条理を尽くしても、言葉はいつも不完全なものであり、口を衝いて出た瞬間に、嘘になってしまうのです。

  これ以上たどれない。
  暗い森はいたるところにある。
  本当のことをいうためには
  しかし
  何かを殺さねばならぬ。
  言葉は死なねばならぬ。
  本当のことをいえば
  わたしは言葉を信じていない。
  崖から石を落とすように
  言葉は落とすしかない。
  言葉が落ちる
  崖の下には
  きまっ森がある。
  これ以上たどれない
  のではなくて
  これっぽっちも
  たどれていないのだが。
  言葉の行方はつきとめねばならぬ。
  枝折って
  指折って
  森のなかを
  くまなく探さねばならぬ、
  (「言葉」安水稔和)

(・・・)

 言葉を最も大切にしている者は、言葉を信じられない者であり、それゆえに、その行方をどこまでも探し求める者なのです。」

**(言葉のあとさき――未生の言語)

「以前、わたしは「未生の言語」という言葉について考えたことがあります。どういう意味かと言えば、それはまだわたしが発見していない生まれる前の言語であり、その言語によって世界がまったく違ったように見える、そんな言語のことなのです。」

「言うに言われぬ感覚であったり、第六感とか呼ばれるものであったり、あるいは、もっと端的に忘れてしまった言語であったりするわけです。

 詩人や作家の書いたものを呼んでいて、「おお、これこそわたしが言いたかったことだ」と感じることがありますが、まさに、そのわたしが言いたくて仕方がないのだけれど、言葉にならない星雲状態のような言語。これが、わたしの言う、「未生の言語」なのです。」

「  本当のことを云おうか
   詩人のふりはしているが
   私は詩人ではない

 有名な谷川俊太郎の詩です。『旅』という詩風に入っている、短い詩「鳥羽」の一節ですが、この言葉には確かに、世界を初めて分節するような言葉の力が宿っています。」

**(言葉の不思議な性格―あとがき)

「本書は、言葉についてわたしが、経験し、その都度感じたことなどを綴ったものです。そして、その考察は「言葉が無力にならざるを得ない場所」をめぐって展開されたものになっています。言葉が鍛えられるのは、言葉が有効に相手に届き、相手が気持ちよくその言葉に反応する場所ではありません。(・・・)

 言葉が鍛えられるのは、ほとんどの場合、言葉が通じない場所においてなのです「鍛えられる」とは、やや奇妙な言い方ですが、言葉というものが、単なる情報交換の道具であることを超えて、複雑な色合いや、含みを持って耀き出すことがあるということです。そのとき、ひとは初めて、言葉というものが案外複雑なものであり、一筋縄ではいかない厄介なものであることに気づきます。言葉が何かを明らかにするよりは、何かを隠蔽することもあるのです。いや、こちらの方が、言葉の本来の役割であるかのように感じるときもあります。」

「どこまでいっても。相手の言葉の核心には触れることができないし、自分の言葉の核心も相手には届かないとすれば、ひとは沈黙を選ぶしかないでしょう。饒舌もまた、戦略的な沈黙と同じdす。」

「実際のところ、相手の言葉のなかから、それで、本当は何がいいたいのかと、相手の声に聞き耳を立てるようになっているのです。

 言葉の内容よりも、ヴォイスを聴くようになったということです。

 言葉には、それが指し示す意味とはいつも少しずれたところに本当に伝えたい事柄が隠れているものです。

 場合によっては、言葉はまったく反対の意味を持って発せられます。」

「わたしは、言葉というものの逆説的な効果というものを学んでいたのだと思います。

 言葉がうまく通じないその分だけ、思いは通じるということもあるのです。

 言葉が通じない分だけ、相手のヴォイスは聴き取れていたということかもしれません。」

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