隠岐さや香+塚原東吾「【討議】無知の力と新しい啓蒙」/鶴田想人「無知学(アグノトロジー)の現在/納富信留「知らないということ」(現代思想2023年6月号)
☆mediopos-3121 2023.6.4
「無知学(アグノトロジー)」が
「現代思想」(2023年6月号)で特集されている
「無知学」とは
「歴史のなかで「無知」」が
いかにして作られてきたかを探求する学問」だという
無知といえば
「無知の知」という
ソクラテスのそれが知られているが
この特集の副題にあるように
その関心は「科学・権力・社会」における「無知」が
問題とされているようだ
ちなみにソクラテスの「無知の知」とされるものは
「不知」つまり知らないにもかかわらず
哲学的な「愛知」(知を愛する)に対立する
「知っていると思いこんでいる」「無知」を
自覚へと導く「不知の知」である
それはなんにで対しても「不知」を求めたというのではなく
「善、美、正義」など
人間の倫理や価値をめぐる「知」について
それが「何であるか」を問い続けるものであった
さて現在問題とされるようになっている「無知学」には
「科学史において、知らないということ自体の問題
もしくは、何かについて知らないとされてしまったこと自体が
問題ではないかと主張」するにあたり
二つのアプローチがあるという
ひとつめは
科学史や医学史において
あえて知らないとされてしまった「無知の領域」に注目し
その背景となる要因を問題にするもの
もうひとつは
ジェンダーについての科学史を扱うもので
科学が「構造的」に女性を排除してきたことを
埋もれた女性科学者の存在を見出すだけではなく
なぜ埋もれたのかその理由問題にするものである
そのように現代クローズアップされている「無知」は
「科学・権力・社会」における「無知」であり
科学は知を生みだすだけではなく
「無知」を作りだしてきたのではないかという問題意識から
これまでの科学史を見直し
そこで働いていた力の所在を明らかにすることで
それに抵抗していこうとするもののようだ
無知を作りだしてきた力とは
ひとつめの問題意識のもとにおいて論じられる
ロバート・プロクターの論文でいえば
三つある「無知」のうちの三つ目
「戦略的策謀、または積極的権威としての無知」のことだ
そうした「無知学」は
ある意味で「新しい啓蒙」のための動きでもあるが
おそらくそこには「啓蒙」の両義性の問題が生まれる
「啓蒙」(Enlightnment)は光を当てること
そして無知学は「無知」という「闇」に
「光」を当てる啓蒙だが
その際だれがどのように「光」の基準を作り
光を当てようとするかが問われなければならないが
そこには「科学の権威」の問題がでてくるのである
現代は宗教的権威にかわり
あらたな権威として「科学」が信仰されがちななか
国家やメディアが「科学の権威」の旗印のもと
「啓蒙」を行おうとする働きかけが強くある
そして国家やメディアの「啓蒙」の意図に反するものは
ネガティブな評価がなされがちである
ときにその「啓蒙」は「光」ではなく
「闇」をもたらすものにもなりかねない
そして「闇」に啓蒙された「権威好き」の人たち
あるいはそれによって利益を得る人たちは
「科学の権威」を「知」だと思い込んでしまう
それはまさに
ほんらいの「不知の知」という自覚が
欠如している状態にほかならない
その意味で「無知学」が探求される際には
背景にある「科学・権力・社会」を問いなおし
そこにおける「啓蒙」そのものの両義性が
常に自覚されていることがその条件となるだろう
■隠岐さや香+塚原東吾「【討議】無知の力と新しい啓蒙」
■鶴田想人「無知学(アグノトロジー)の現在――〈作られた無知〉をめぐる知と抵抗」
■納富信留「知らないということ――ソクラテスの哲学を究める」
(現代思想2023年6月号 特集=無知学/アグノトロジーとは何か―科学・権力・社会)
(「【討議】無知の力と新しい啓蒙」より)
「塚原/学問は知を扱いますが、「知っている」ということだけではなく「知らない」ということ、もしくは「知られていない」ことを考え直さなければいけないのではないかという考え方は、昔からあります。歴史をさかのぼればソクラテスがひとつの典型ですが、最近では特に一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけての科学史において、知らないということ自体の問題もしくは、何かについて知らないとされてしまったこと自体が問題ではないかと主張しはじめた二つのグループ、二つのアプローチがあります。
一つ目は、ロバート・プロクターとピーター・ギャリソンらのグループによるものです。彼らは科学の名のもとに、あえて知らないとされてしまった領域が存在していると指摘しました。(・・・)彼らは科学史や医学史において、あることについての知だけが研究されていて、研究されていない分野やそういったかたちで置き去りにされている領域、いわば無知の領域とされている部分があることに注目しました。知を自称する側には、そのような大きなバイアスがあることを曝し、そしてそれらの背景となる要因を指摘しました。科学史のなかで、無知に押し込められていた領域があるのはなぜかを問うことで始まった考え方です。
もう一つは、ロング・シービンガーが中心になっている、ジェンダーについての科学史を扱うグループがあります。女性についての初期の科学史は、これまで知られていなかった科学史上の女性の功績を掘り起こすというやり方です。しかしシービンガーたちはそうではなく、そもそも科学が「構造的」に女性を排除してきたことを明らかにしました。埋もれた女性科学者を掘り出すだけではなく、埋もれた「理由」を問い始めたわけです。」
「塚原/私はどちらかというと、マルクス・ガブリエルが提唱する「新しい啓蒙」(New Enlightnment)的な立場に近いのかもしれません。彼は大胆にも「道徳的進歩」(moral progress)の必要性を提唱しています。パンデミックや戦争を乗り越えて持続可能性を保ち、差別や不平等を減らすためには、結局、人類胸痛の普遍的価値を求め、今までに不可能であったような人類全体の協力関係を構築するべきだという考え方です。そのためには人間性に対する高度な理解が必要とされます。何故なら、「新しい啓蒙」では個々人の理性はあてにできず、多様で限定的な理性を持つ弱い個人が、地域や人種、ジェンダー、年齢の違いや障害の有無がもたらすバイアスとともに対話を重ねなければならないからです。そのためには学術の全分野からの人間性把握が必要になります。私自身は彼ほどラディカルに「道徳的進歩」を信じきれていない部分はありますが、過去の啓蒙とは技術環境が違うので、こうした方向性は全くの夢物語でもないとも感じています。
しかし、矛盾するようですが、一方でかつてのように専門知の権威が復権し、崇拝や信頼の対象となればいいのかといえば私には躊躇いがあります。私は引き裂かれた思いでいます。」
(鶴田想人「無知学(アグノトロジー)の現在」より)
「無知学とは、歴史のなかで「無知」————私たちの知らないこと————がいかにして作られてきたかを探求する学問である。」
「二〇〇八年の論文集『無知学』の巻頭に、プロクターは無知学のマニフェストともいえる論文を寄せている。
(・・・)
プロクターはそのマニフェストの中で、無知を三つに分けている。
①生来の状態としての無知
②失われた領域、または取捨選択(受動的構成)としての無知
③戦略的策謀、または積極的権威としての無知」
(納富信留「知らないということ」より)
「人々から「知者」と呼ばれていたソクラテスが強く「私は知らない」と言い続けた様子は、プラトンの多くの対話編では描かれている。彼が自認するあり方を「不知」と呼ぶとすると、その特徴は次の通りである。
まず、ソクラテスが「知らない」と言っているのは、「善、美、正義」など大切なことについてであり、任意のどんな事柄も知らないという趣旨ではない。(・・・)
第一に、ソクラテスには、後の懐疑主義者のような、「何も知らない」といった全称否定であらゆる「知」を疑ったり退けたりする態度はまったくない。(・・・)
第二に、ソクラテスが「知らない」と言うのは、大きく人間の倫理や価値をめぐってであり、とりわけ「徳(アレテー)」と呼ばれた「人間としての善さ」に向けられている。(・・・)
第三に、ソクラテスが「知らない」と言ったのは、徳をめぐるあらゆる命題ではなく、「何であるか」という問いへの答えであった。つまり、ソクラテスは徳について何も知らないとか、そもそも何も論じられないとか、そんな無責任なことを言ってはおらず、吟味をつうじて確信できることを認めていっても「それが何であるか」という最重要な点は「知らない」と語ったのである。(・・・)
では、「何であるか(ティ・エスティン)とは何を尋ねる問いであり、そこで求められる答えとは何なのか。この問いを引き受けたアリストテレスは、それを「定義」と呼び、言論において「本質」を示すことだと考えた、師のプラトン派その二つを射程にいれつつ、「何であるか」への答えに「イデア」という存在を提示した。ソクラテスが「知らない」という形で強烈に問題提起した「何であるか」の探求は、ギリシア哲学の本道を切り開いたのである。」
「「何らかの点でより知恵がある」とアイロニカルに語られた「人間的な知恵」は、日本では一世紀にわらって「無知の知」あるいは「不知の知」という標語のもとで誤解されてきた。「知らないので、そのとおり知らないと思っている」という虚心坦懐に認め語りつづけるソクラテスを、「無知を知る」、あるいは「無知の知を知る」知者、偉大な教師として祭り上げてきたのが、近代日本のメンタリティである。
ここで、プラトンによる「不知」と「無知」の明瞭な区別を確認しておこう。『ソフィスト』では、ただ「知らない」という状態である「不知(アグノイア)」を類として、分割された一方の種が「知らないのに、知っていると思っている」という「無知(アマティアー)」だと言われる。『法律』篇でも同様に、「過ち」の原因である「不知」という類が、二種類に分けられる。
(・・・)
この二種類を分けるのは、「無知」つまり「知らないのに、知っていると思いこんでいる」という悪を取り除く必要があるからである。哲学の一つの任務は、そうした無知からの魂の浄化である。知を愛し求めるのが哲学だとして、そもそも知に向けて欲求が発動するためには、知らないという自覚が必要である。「不知」という状態はそれ自体では人間に宿命的な有限性に過ぎないが、「無知」は「愛知」に真っ向から相反する最悪の状態なのである。」
「善や美や正義など、私たちにとってもっとも大切なことについて「何であるか」を問いながら「知っている、知らない」という究極の場面から自己のあり方を吟味しつづけること、それがソクラテスの不知の自覚であった、天球を継続しながら、その都度「知らない」と確認し、その思いを抱きつづける彼の生き方は、自己のあり方を可能な限り透明にし、あるがままに受け止めることで、より善い生き方を目指す不断の営みであった。その「不知」に耐える強靱さが、ソクラテスの偉大さであり、哲学者の生き方という理想をもたらしなのである。私たちは、彼が突きつける「知らない」から目をそらさず、それを認めつづける生に耐えることができるだろうか。」