ジョンジョー・マクファデン『世界はシンプルなほど正しい/ 「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか』
☆mediopos-3170 2023.7.23
「オッカムの剃刀」と「唯名論」で知られている
オッカムのウィリアムはフランシスコ会会士で
後期スコラ学を代表する神学者である
(一二八五ー一三四七)
オッカムは「普遍は我々が物体の集まりを
指すのに使う単なる名前にすぎない」とした上で、
「少ない事柄でできることをたくさんの事柄で
おこなうのは無駄である。・・・・・・したがって、
知るという行為以外には何一つ仮定すべきでない」と論じ
「オッカムの剃刀」の核心にある考え方は
「不必要に普遍を増やさない」で
「現実に対する説明やモデルに組み込む要素の数は
最小限に留めるべきである」
というものだったが
中世哲学における唯名論と実在論の対立も
「オッカムの剃刀」も
ほんらいはそれこそ「オッカムの剃刀」で
シンプルにできるようなものでもないようだが
ここではその議論の詳細とは少し離れ
本書で論じられるように
「オッカムの剃刀」を
複雑さや冗長さを容赦なく削ぎ落とし
よりシンプルな答えへと方向づける
思考の道具としてとらえることにする
本書で単純さへと方向づける
「オッカムの剃刀」が適用されるのは主に科学の歴史で
宗教の支配から解放する科学や
地動説・量子力学・DNAの発見
そして宇宙や生命の誕生といったものだが
本書の「終章」でも示唆されているように
「オッカムの剃刀は至るところに転がっている。
あらゆる時代にあらゆる場所で進歩を妨げてきた
勘違いや独断、偏狭や先入観、信条や誤った信念、
あるいはまったくのたわごとの藪を切り拓いて、
道を敷いてきた」といい
「今後もさらなる単純さが発見されていくはずで、
それを成し遂げるのは科学者である」のだというが
さらに付け加えるとしたら
その肝心な「科学」そのものの世界観にも
「オッカムの剃刀」を適用させる必要がありそうである
現代は「科学」そのものが
かつての中世のような宗教(神学)と
化してしまっているところがあり
さまざまな政治的経済的イデオロギー的偏向も
付着しすぎている傾向を否定できない
唯物論的な世界観という枠組みもあり
その枠組みそのものが
「科学」を限界づけているところがあるのではないか
さらなる「単純さ」をもとめ
(単純さのための単純さではもちろんなく)
根源的なところで「オッカムの剃刀」が必要である
■ジョンジョー・マクファデン(水谷淳訳)
『世界はシンプルなほど正しい/
「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか』
(光文社 2023/3)
(「はしがき」より)
「この宇宙は誕生時の単純さを〝記憶〟していて、ビッグバンから一四〇億年経ったいまでもその本質は単純なままだ。その本質、つまりこの宇宙の単純な構成要素を、オッカムの剃刀と呼ばれる道具を使って解き明かそうとしてきた人々の営み、それが本書のテーマである。オッカムの剃刀という名前は、(・・・)フランシスコ修道士オッカムのウィリアムにちなんでいる。」
(「第3章 剃刀」より)
「神の全能に関する議論は、ウィリアムがやって来る一世紀前にはすでにオックスフォード大学のあちこちで交わされていた。ドゥンス・スコトゥス(一二六六ー一三〇八)は、もしも神がきまぐれに規則を変えることができたとしたら、いかにして善悪の違いを判断したたいいのかという疑問について論じていた。ウィリアムはそこからさらに大きく踏み出した。デカルトが西洋哲学を解体して「我思う、ゆえに我あり」という有名な金言にたどり着いたのを先取りするかのように、神の全能性を除く中世哲学のあらゆる要素を剃刀で削ぎ落としたのだ。
このときウィリアムが直面していたのは、全知全能の神は不可知でもあるという問題だった。」
「ウィリアムは、普遍は我々が物体の集まりを指すのに使う単なる名前にすぎないと論じた上で、「少ない事柄でできることをたくさんの事柄でおこなうのは無駄である。・・・・・・したがって、知るという行為以外には何一つ仮定すべきでない」と論じた。さらに、「多くの事柄を予測できるもの[普遍]はそもそも心の中にある」と指摘した上で、普遍はわれわれが物体を分類するのに使う名前でしかないと力説した。そのためウィリアムが推進したこの中世の哲学大系は〝唯名論〟と呼ばれている。」
「この「不必要に普遍を増やさない」というのが、オッカムの剃刀の根底にある核心的な考え方である。現実に対する説明やモデルに組み込む要素の数は最小限に留めるべきである。」
(「第17章 量子の単純さ」より)
「コペルニクスやケプラー、ボイルやニュートン、ダーウィンやウォレス、メンデルやアインシュタイン、ネーターやヴァイルなど偉大な科学者たちは単純さに信頼を置き、その信頼から仰天のひらめきや進歩、そしてそれまでよりも単純な宇宙という賜物を授かった。しかしオッカムの剃刀を使ったからといって必ず単純になるとは限らない。
ここまで繰り返し強調してきたとおり、オッカムの剃刀がつねに役立つ一方で、宇宙のモデルはいくらでも複雑にすることができる。「不必要なもの」という条件があるため、それに背かない限り必要な複雑さをどれだけ付け加えてもかまわない。それでも偉大な科学者たちが見つけてきた答えは、決まって、この世界をそれまでよりも単純にするものだった。天界と地上に同じ法則を当てはめる必然性などなかった。電気と磁気がまったく異なる力でもおかしくはなかったし、光がそのどちらとも無関係である可能性もあった。単純さはどこからか与えられるものではなく、発見される、あるいは暴き出されるものだった。オッカムの剃刀によってこの世界が単純であることが保証されているわけではないが、それでもほぼ必ずそうなってきた。それはいったいなぜなのか?」
(「第18章 剃刀を開く」より)
「本書で取り上げたそのほかの論争、たとえば創造説と選択説それぞれに基づく化石(〝形象石〟)の説明などにもオッカムのポケット剃刀を当てはめてみてほしい。ホメオパシーやクリスタル療法といった疑似科学的医療が有効であるとする説明と、いっさい効かないとする説明に、この剃刀を当ててみるのもいいだろう。地球温暖化とその原因をめぐる論争も、ポケット剃刀の切れ味を良くするための砥石としてなかなか興味深い対象だ。
最後に念を押しておくべきこととして、オッカムの剃刀自体は、この宇宙が単純か複雑かについては何ら主張していない。データを予測できるモデルの中でもっとも単純なものを選ぶよう求めているだけだ。このようなタイプの単純さの原理は、〝弱いオッカムの剃刀〟と呼べるだろう。しかし多くの科学者、とりわけ物理学者は、我々が存在している以上この宇宙は可能な限り単純であるとする。〝強いオッカムの剃刀〟とでも呼べる考え方を受け入れている。」
(「終章」より)
「オッカムの剃刀は至るところに転がっている。あらゆる時代にあらゆる場所で進歩を妨げてきた勘違いや独断、偏狭や先入観、信条や誤った信念、あるいはまったくのたわごとの藪を切り拓いて、道を敷いてきた。単純さが現代科学に組み込まれたのではなく。単純さそのものが現代科学、ひいては現代の世界なのだ。もちろん今後もさらなる単純さが発見されていくはずで、それを成し遂げるのは科学者である。とりわけ、いままで足枷となってきたあからさまな偏見や独断や不利な立場に縛られていない、性別や人種や性的指向もさまざまなもっとずっと幅広い立場の人々だ。オッカムの剃刀の主戦場である物理学にすら、いまだなすべきことが多く残されている。現在のところ宇宙の構造をもっとも良く記述する一般相対論と、現在のところ原子の構造をもっとも良く記述する量子力学とを統一する術はまだ誰も見つけられていない。二〇世紀を代表する物理学者の一人であるジョン・アーチボルド・ウィーラーは力を込めて次のように言う。「あらゆる物事の裏には間違いなく単純で美しい考え方が潜んでいて、一〇年か一〇〇年、あるいは一〇〇〇年かけてそれが理解できたときには、きっと誰もがこう言い合うだろう。それ以外の考え方なんてできるだろうかと」
この世界は本当に単純なのだ。」
◎ジョンジョー・マクファデン(Johnjoe McFadden)
英国サリー大学の分子生物学教授。インペリアル・カレッジ・ロンドンで博士号を取得。結核や髄膜炎を引き起こす微生物の遺伝学を研究している。著書に『量子進化――脳と進化の謎を量子力学が解く!』、共著に『量子力学で生命の謎を解く』がある。
◎水谷淳(みずたに・じゅん)
翻訳家。訳書にジム・アル゠カリーリ&ジョンジョー・マクファデン『量子力学で生命の謎を解く』、グレゴリー・J・グバー『ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』、グレゴリー・ザッカーマン『最も賢い億万長者』、デイビッド・クリスチャン『「未来」とは何か』(共訳)。著書に『科学用語図鑑』。