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鎗留の城 制作ノート 9

※ こちらは創作漫画「鎗留の城」のネタバレを含みます。本編BOOK☆WALKER『鎗留の城 一』)をご覧頂いてからお読み頂けますと幸いです。

作中の時間経過について

元亀元年六月十四日の日付のみが史料ではっきり確認できるものです。

旧暦なので、月齢とほぼ同じ。時間経過は月の形と位置や高さで表現するよう努めています。

舞台は地元なので、各場面の場所や方向は(描けているかはともかくとして)頭の中にはっきりとした設定があります。そこから月の位置と高さを大体決めています。

ただし、場面的にここにアクセントがほしい!という場所に月を置くこともあるので、あまり正確なわけでもありません。

ということを念頭に置いて、作中の時間経過を追ってみましょう。(基本時系列は前後しません)

『槍留の城 一』にて表示されている月の形はこちらのみ。
だいたい月齢12~13くらいを意識しています。
月そのものは例の如く
クリスタのアセット「黒い背景に貼り付ける満月」を使用させて頂いております。
これをトーン削りの要領で削って成形。

この月が出てくるまで数度の場面転換。

まず第一場「国人領主らの会合」
年のみ明記。六月十四日より一月ほど前になるでしょうか。場所はどこだろう。豊島館ではないはず。
湊城に出仕した後、みんなで八柳館辺りに押しかけたかもしれません。不憫な長門さん。

第二場「三森山、河尻明神」
第三場「河尻館、中務と靫負」
二場と三場は同日の昼と夜。
一場の回想から繋がるのでそう日数が経っている訳でもなさそうです。

第四場「豊島休心の謀略」
この一コマ目から二コマ目の間に数日が経過しています。二コマ目以降は同日。合戦前夜。
饗宴の主役は老婆なので、始まりはそんなに遅い時間ではないかと。午後8時くらいと推定。
(ここで使われた毒についても考察したいですがまた別の機会に)

第五場「永井の使者、河尻館を訪う」
(具足が…)
ここでやっと月が登場です。
休心は饗宴で永井飛騨を謀殺後、即座に太平を攻略する手筈を整えていたはずなので、これは同日の深夜になります。
太平永井氏の城に比定する舞鶴館は豊島館から疾走する軍馬で四半時(自動車30分)弱、直線距離は短めですが、地形が入り組んでいるため割とかかるかなと。太平勢は寝込みを襲われた形になるので攻略にそう長い時間はかからなかったと思われます。
逃走した左近が支城から周辺領主の元へ使いを飛ばします。河尻は比較的近いので単騎で30分とかからないはずです。
靫負の戦支度、根小屋村への戦触れ、男衆が戦支度をして集まって、出発は南中を過ぎた頃です。
ちなみに元亀元年と同じ庚午の年である
1930年の旧暦6月にあたる7月の、
月齢13の月の出が19:11:37、南中時刻が23:36:22、
月の入は翌日04:03:08です。

第六場「湊城の四郎、夜回り中に河尻の異変を知る」
豊島へ向かう前に靫負が放った火が燃え上がるまで15分くらいでしょうか。
時刻はいわゆる子の刻。四郎は都合よく夜回り当番をしていたものです。
この湊城の場所ですが、現在湊城跡とされる現JR土崎駅付近には比定していません。そこに屋形(平城)はあったはずですが、それと別に山城として、古城山(高清水岡)、現史跡秋田城跡(平安期の遺構)の西にあたる寺内焼山付近をここでは湊城と比定しています。
四郎がキツネの声を聞いたのは古四王神社参道下あたり、河尻方向に火の手が上がっているのを見つけたのは現寺内小学校の坂の上。
とっくに月の南中は過ぎている頃なのでここから三森山を見た方向に月は見えないはずですが、演出上置いています。
問題は、九郎さんが古城山の湊城にいるかどうか、なのです。自分の設定でも平時に湊城当主が山城に寝泊まりしているのはずないのです。平城の湊城までよりも高清水岡からだと三森山に走った方がまだ早そうです。なのでこの日はたまたま山城の湊城に宿泊していたと無理矢理設定するしかなさげです。

第七場「三森山、避難の郷民たち」
時刻としては六場と同時、子の刻です。
日没と同時に就寝しているので郷民たちも寝耳に水、寝込みに戦触れだったはずですが、火炎の明かりですっかり覚醒した模様ですね。
それでも小さい子たちは眠くて仕方がないという描写をしたつもりですが。描けているかな。

第八場「四郎、河尻へ走る」
時間的にちんたらしていると河尻館は燃え落ちてしまいます。
現在の羽州街道は藩政期に整備されたものなので、ここは名も無き原野をひた走ってもらいます。単騎の疾走で約10分。そう、そんなに遠くないんですよ。
問題は間に川が二本あることです。現在は二本とも川筋・川幅などが変わっているので、どこをどのように越えたかは定かではありません。
河尻館着は丑ノ刻ほど(深夜1~2時頃)でしょうか。

第九場「推古山、豊島休心蜂起」
推古山合戦開戦です。この日付は定かではありません。
ですが、太平襲撃からそのまま即日と思われます。
推古山はこのお話中では、現秋田大学の東側にある手形山を比定しています。河尻明神のある三森山からは徒歩で四半時(30分)ほどの場所です。
豊島城と湊城の中間地点にあり、地形的に山というより高台、館としてもいいくらいの場所ですが館としての遺構はなく、広大な岡に両陣営が布陣して対戦したと思われます。
ちなみに、推古山の合戦場は確定されていません。

靫負ら河尻軍勢(騎馬十、歩兵百)は、三森山から豊島館へ移動して(徒歩2~3時間ほど)豊島軍勢と合流し、推古山へ戻ってきたことになります。この時期5時前には夜が明けるので、夜明と共に行動を起こすとすれば、半ば徹夜。
夜通し情報収集した湊方も軍備を整え派兵します。
湊軍は蜂起した豊島勢を鎮圧するつもりと思われますが、前夜に太平永井氏を攻略して勢いづいた豊島勢に押され、撤退を余儀なくされたものではないでしょうか。

そして、「元亀元年六月十四日」です。
この日付で湊方の将、瀬川甚左衛門が、豊島の将畠山某を馬より射落とした功で後に褒賞されたという史料があります。
この時点では劣勢だった湊方ですが、後に褒美を賜るほどの功ということは、被害を最小に食い止めたことに対する功労であったのでしょう。

時刻は定かではありませんが、朝から始まった合戦の戦況が定まるのは昼前くらいでしょうか。
冒頭で傀儡と評された九郎さんですが、撤退の決断は早い(という設定)です。

余談ですが、小学生の頃鍋っこ遠足で歩いた土崎港に位置する我が母校から旭川上流への道は、今思えばほぼ湊軍の進軍路であったかもしれません。あまりに遠い記憶で曖昧ですが、朝8時から11時頃まで鍋釜食材を背負って歩かされたと記憶しております。かり出された一雑兵の思いを追体験したかもしれません。

現代の小学生の遠足と、戦国時代の進軍を一緒にするのもなんですが、まさか百や二百の小勢ではないと思うので、数千規模の大軍が移動するには、同等の時間がかかったかもしれないと今思いました。
5時くらいから移動開始して現着が8時、布陣してしばし睨み合い、合戦開始は10時頃かもしれません。
まあそれでも2時間も揉み合えばちょっとタンマとなるのではないかな。どうでしょう。
そんなこんなで湊軍撤退、件の瀬川の活躍です。

将を射落とされ、勢いを挫かれた豊島方はここで一旦態勢を整え直します。仙北戸沢が睨みを効かせてくれているとはいえ、背後の太平勢にも備えなくてはなりません。
数々の(小)城館を攻略してきた豊島軍ですが、さすがに湊安東を攻略するには慎重を期したと思われます。
湊城攻撃は即日ではなく、翌十五日以降、と設定しております。
(未完成の)最終ページです。
演出的には、湊に日が落ちる時刻。
この時期の日没は体感として6~7時です。満月なので東でも月の出の頃ですが、湊は日本海に面しているので西方向。
古城山湊城から男鹿島方面(北西)を臨むと湊(現秋田市土崎港)が一望できます。

豊島休心蜂起による推古山合戦に端を発した元亀湊騒動は、翌元亀二年まで持ち越されます。

どのような結末となるかは、続く『槍留の城 二』をお待ちください。

さていつになるのかな(遠い目)

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