旅は、私の血となり肉となる
今年は意識して行きたいところには行こうと決めた。
今まで難癖つけて、行きたいのに行かない場所を増やし続けていたけれど、この調子では行きたかったのに一生行き着けない場所が増え続けることになる。
この世を去るときの後悔をなるべく減らしたい。
年始早々足を運んだのは奈良の古都。
そして先日は毎年恒例のお伊勢参り。
来週は見逃したらそれが心に残るであろう展覧会のために上京する。
海の外にも行きたいところはたくさんあるけれど、今のところは日本、だ。
私が生まれ育った国をたくさん知りたい。
旅ということに絞っても、今の時代はTVから始まり、ネット、SNSでありとあらゆる情報があふれている。そういう情報を目の当たりにすると、ああ!素敵ー!、これめっちゃ美味しそうじゃん!と誘惑の次には、それを画面越しに観ていることを忘れ、知った気になり、さらには行った気になっていたりする。
けれどこれは恐ろしいことだと感じる。実際のところそれで得ているものはほんのわずかでしかないのだ。匂いもわからないし、温度だって感じられない。
いかに情感が伝わってきたとしてもそれはその人の経験であって、さらに云うと私が勝手に妄想している情感なんである。ちっとも私の経験ではないのだ。そんなの当たり前じゃん。と思いながら、行かない自分がほとほと嫌になったんだ。
私がその土地に足を運んだときに体験したいこと。
その土地の空気。匂い。水。木々。
その土地の言葉。音。
その土地ならではの美味しいもの。
その土地に積み重なったもの。
昔と今につながること。文化。習慣。
昨今はどこを見ても平らになりつつあるようにみえるその土地の特色も、少し目を凝らしていくとまだまだ確実に息をしているものが見えてくる。ブラタモリ的な視点というのか。その土地で大事にされてきたこと。愛されてきたもの。「こんなの珍しいんか?」という言葉が出てくるレベルの当たり前に出会うたび、私の心の鐘は鳴る。
その中から自分の日常に引きつけてこられること、 生きる希望となるヒント。
そんなエッセンスが意識層無意識層にどんどん染み込んでいく。
言葉にすると陳腐に聞こえるかもしれないけれど、その地に身をおくことでしか体感できない刺激が全て、私の血となり肉となる。そしてそれは完全に個人的なものだし、実際何の役にたつかなんて全くわからない。
役にたつかどうかという杓子定規を持っていた私をやめる。
それが今年一番の目玉だったりする。