寺山修司のこと
昨日アマゾンプライムで見たベルイマンの「ペルソナ」はこころを病んでことばを失った女優と、それをケアする看護師の物語。ふたりの世界というのは、こんなふうに危うい。近づいていくほどに空気は濃密に。あなたとわたしの境目がだんだん曖昧になっていく。相手を好きになり、相手も自分を好きだと感じ合う時。やがて、ふたりのこころが「妊娠」「出産」という自分の存在を揺さぶり、揺るがす場所についに対峙する。
この映画は20歳ごろに見た。そしてその時にはさっぱりわからない精神世界の物語だったんだろう。ほとんど記憶にない。もう一本ベルイマンをみようかと思ったが、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」があったので、これをみることに。しかし、見始めてすぐに、寺山修司と母親の関係のことが頭をよぎった。死んだ母親、弟、など、現実とは乖離した虚偽の世界を短歌に詠んだ寺山修司。ちょっと検索してみたら、寺山修司を看取った田中未知の著作がネットに上がってくる。田中未知といえば「時には母のない子のように」(歌:カルメン・マキ)の作曲をした人。作詞は寺山。田中未知が寺山修司とのことを綴った『寺山修司と生きて』には、「母地獄」という章があるそうで、ここが全体の1/4を占める分量となっているという。これはとても興味深い。これについての書評などを見ていたら、なんと寺山修司の母、寺山はつが『母の蛍 〜寺山修司のいる風景〜』という著作を発表していることがわかった。寺山の詩集や歌集、随筆のようなものは文庫本で買って読んだ(若い頃から最近まで、ときどき読みたくなる時期があるので、ちょこちょこ集まってきた)が、全然ここまでは調べたことがなかった。ネットで見る限り、この母親には容赦なく「毒親」だの「性悪」だとか、「尋常ではない性格」だとか、容赦ない非難のつぶてが投げつけられている。この二冊を読んでみることにした。ネットで古書が手頃な価格で出回っていた。
尋常ではない、とか、性悪、とか、ことばにするととても強い。第三者はそんなふうに言うかもしれないが、当の寺山は自分の母親を「尋常ではない」と思っていたのだろうか。私も親族のなかに「尋常ではない」ものを感じる者がいるが、四六時中尋常から外れているというわけではない。それはむしろ、理性の歯止めの利かない、度を超えた無邪気さであり、それを振り回して良い相手を見極めているところが特徴である。8年くらい前まで非常に苦しんだ。しかし、ある出来事を境に、そのターゲットにならないようにとことん逃げることにした。逃げる、と決めるまでは苦しんだ。逃げるという選択肢がなかったからだ。しかし、現実が想像を超えてきた。その時に、「逃げる」という選択肢がパッと光を放った。もうそこに一切のうしろめたさはない。逃げられずにいたのは、なぜか自分に落ち度があるように思い込んでいたからだ。思い込ませの仕組みはあまりにも巧みで、家族関係などに苦しむ多くの人は、この仕組みの罠にはめられていることが多いのではないかと推察する。
では罠にはめている側はどうかというと、当然、罠にはめているという自覚はない。ただ、自分の思い通りの「善悪」の決着をつけるために、そのように場を誘導していく。この誘導のエネルギーが非常に大きいのがこのタイプの人だろう。追い詰めているとは思ってない。一旦、火がつくと、自分が思う「勝利」を手にするまで、猛進する。あたかも罪人を裁く裁判官か、もしくは囚人に贖いをさせる刑務官といった役どころか。それが快感であり、そのために他者がどのように苦しみ、あるいは自分に対してどのような気持ちを持つかというようなことは考えない。自分の快楽に正直な人でもある。しっかり味方をつくっておいて、味方になりたがらない者には容赦ない。
自分への愛(執着)がゆえに尋常性を失している母親に対して、寺山はアンビバレントな感情があっただろう。母親への嫌悪感と罪悪感に引き裂かれる。しかし、やはり、ここでしっかりと子どもの頃の関係性に訣別するということが、人生を次へ進めるためには必要なことのように思えるし、親にとっても、子を育てる、という仕事のなかで非常に苦しいこの段階を乗り越えることによって、人として成長でき、その成長を社会に還元することができるのではないか。
ただ、芸術家や研究者は、そこに身を置いたまま関与観察を続けるということがあったりするのかもしれない。わからないことだけど。
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