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ふたたびの出会い

 午前中にNetflixで「2001年宇宙の旅」を見た。

 午後、作業をしていたら、ベランダから差し込む日が春のようにあたたかで、なぜか物音ひとつしない。世界が停止しているかのように。ひとり暮らしはそんな風に、世間から隔離されている感覚を味わうことができる。孤独に強いのか、そもそも孤独でないのか、孤独じゃないけど孤独っぽいものを味わいたいのか。

 作業が進まないので、ちょっとギターを弾くことにした。久しぶりに「fight for your heart」を春馬くんのPV見ながら弾こう、と思って、うっかり春馬くんの詰め合わせ動画を見てしまう。これを見始めたら「春馬沼」にハマってしまい、コントロール不能になる。で、結局やっぱりちょっと数本まとめてみて、そして今日はもうそれで見るのをやめた。

 半年以上も春馬くんのことを考えて、「心にぽっかり穴が空いたよう」になるというよりは、「あってはならない現実」を受け入れられないような時間が続いて、やがてそのことを、知的に見る視点でなんとか解決しようとして、濫造発信される動画を見るのもなんとか控えていたが、改めて彼の姿をみていると、不思議と新たに浮かんでくることもあって、まだまだそう簡単にわかったように言うことはできないと自戒した。

 「あってはならない現実」を「こうなるしかなかったこと」として受け入れる事ができるようになりつつあるかというと、特にまだはたち前後の彼を見ているときにはとても受け入れがたく、非常に苦しいものがある。子役時代の動画もたくさん上がっているが、器用な子なんだなぁと驚いてしまう。役の演じ分けを見ていると、物語の設定の細かいことまでわかってやっているのかな、と思ってしまう。こんなに上手に演技をして、可愛らしい容姿で、未来はただキラキラと輝かしいようなこの子が自分より先にいってしまうなんて、共演した大人たちは想像だにしなかっただろう。そう、彼は子供時代にたくさんドラマに採用されているので、共演者も多いのだ。近年共演した人も、子供の頃に共演した人も、何度も共演した人もみな、彼をうしなって人知れず慟哭しただろうと思うと、それにもやはり胸が張り裂けそうになる。

 二十歳くらいの彼の、比類なきキラキラを前にスタコラ引き返してきてしまった私のような者が、彼の人柄や稀有な能力、魅力に、もう一度の出会いを準備してもらえなかったことはかえすがえすも残念でしかたない。そういった意味で、彼は作品にやはり恵まれなかったと言えるのじゃないだろうか。私は「僕のいた時間」的なドラマを当時見たい気分ではなかったし、原作が大好きな「わたしを離さないで」の頃は自分が病気をしていた。2015年は、2014年に放送された「昨日のカレー、明日のパン」というドラマに夢中でもあった。何回も何回も見た。本当にすばらしいドラマだった。私だってドラマを見ていたのだ。

 それから「TWO WEEKS」も、少しは見た。だけど、面白さを感じるところまでいけなかった。ワイルドな三浦春馬にもピンとこなかったし、ドラマそのものにも自分の入り口を見つけられず挫折した。高嶋さんもものすごく怖かった。母の介護がひと段落ついた頃だったな。

 「世界はほしいモノにあふれてる」だって、よく見ていた。見ていたと言うか、何かしながらテレビがそれを映し出していた。なんとなく、三浦春馬がワイプのなかで不機嫌そうというか、居場所なさげにそこにいるような感じがしていた。さらにJUJUが(三浦春馬とでは)しんどそう、という印象があった。

 大河ドラマは見なくなっていく久しい。よって「直虎」も見ていない。

 キンキーブーツの話題もめざましテレビで見たと思うし、割とはっきり記憶にある。が、だからといって見に行きたいというところまではいかず。

 結局、春馬くんは「ラストシンデレラ」以降、新しいファンを大量に(日本で)獲得するための作品に出会えなかったように思えて仕方ない。NHKでは連続時代劇もずっと放映しているし、質の高いドラマを制作している。こういうのにキャスティングされなかった不運もあった。それから、私はわりと日本映画もちょいちょいと見ていて、そして2011年の「八日目の蝉」が本当に好きで何回も見ているが、映画の世界でも春馬くんの作品には出会えなかった。本人も日本で新しいファンを獲得できていないと自覚していたのかもしれない。商店街を歩く番組で「可愛かったときの方が好き」とおばちゃんに言われていた。「よく言われるんですよねー」と春馬くんもいい、しかし、それは子役時代のことを意味するかのようでもあったが、私は子役時代の春馬くんが「三浦春馬」として知られていたという気はしないので、どんなに早い時期でも「14才の母」より後だと思う。それが「UNO」のCMのことを言っているのか、「おーいお茶」なのか、「サムライハイスクール」なのか「恋空」なのかわからないけれど。

 じゃあ、一体どんな風に彼は活動すべきだったのか。

 よくわからない。だけど、もっともっとチャンスがほしかった。CMでもいいし、映画でもドラマでもよかった。

 そうか。だから歌も歌ったんだな。フックになれば、と言っていたのは、なにも出演しているドラマのことだけじゃなくて、自分自身って意味もあったかもしれないな。こんな歌える人だったんか、って2019年の歌番組でのパフォーマンスのあと、多少騒然となっていたようであるから。自分に自信が持てる部分で、たくさん露出して、新たな魅力を発信したかったんだな。しみじみわかる。「めちゃくちゃ歌上手いやん!」とか「めちゃくちゃダンスできるんや!」とか、そういう驚きをもっともっと見せたいと思っていたんだろうな。

 だけど、それは少なくとも私には届いてこなかった。だれか私の知っている人に届いて、それがその人から私にもたらされるということもなかった。まだまだ私につながる人に届いていなかった。

 「カネ恋」を撮影しながら、「自分なんかダメだ」という思いに苛まれていたんじゃないのだろうか。コロナで舞台ができなくなって、それから他にも思い通りに行かない色々なことがあったのだろう。多くの人が言っているように、だからプライベートは大事なのかも。思い切り勝負するために、そして人生を生き抜くために。「捨て身の奴に負けはしない 守るべきものが僕にはあるんだ」というのはキリンジの曲。

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