なぜ君は総理大臣になれないのか
今年も3ヶ月過ぎた、半分過ぎた、夏が終わった、台風が来た、などと言いつつ人生が進む。
昨日、立憲民主党の小川淳也という人のドキュメンタリー映画「君はなぜ総理大臣になれないのか」をNetflixで見る。これが映画という枠を越えてきた。映画としてよくできているのか、はたまた私がこの映画をとおして小川淳也という人と出会ったことの感銘なのか、わからない。
選挙カーや、同じ色のジャケットを着て運動する様子、手を振る、握手する、頭を下げる、お願いします、今までこのような光景に何度も何度も出くわし、目を逸らし、選挙事務所の人たちは本当にこの候補者の公約をどれほど知っているのか、どれほど説明できるのか、候補者の人柄が本当に尊敬しているのか、と、そういう不信感からの嫌悪感があって、見たくないものにしか映らなかった。この映画にもそんな様子が何度も映し出されるし、その嫌悪感が払拭されるほどの好感度が上がる選挙活動というわけでもない。
しかし、映画では彼の描いている日本社会のあるべき姿というのが、難しい言葉で煙に巻かれることなく、わかりやすい言葉で、端的に語られていて、私のモヤモヤっとしたところに、触手の先端みたいなところがぴちょっと届いてくる。政権への批判もわたしの感覚と近く、こちらも端的で、物事に対して動く感情に対する反応も率直でさっぱりとしている。小川氏の両親は「政治家には向いていないんじゃないか。大学の先生の方が向いているのじゃないか」と言っていたけれど、私はまったくそう思わない。この人はシステムを作り直したいタイプの人なのだ。
民主党の短命政権のあと、解党、結党いろいろあって、2017年希望の党からの出馬での苦悩、車内での映画監督との会話のシーン、ここの長回し。小川氏とともにこちらも悩ましく考え込んでしまう。結果を知っていてもだ。「打倒小池ですよ」と言いつつ、希望の党から出馬して小選挙区で落選。比例区で当選というなんとも皮肉な結果。遠くの、より大きな成果を得るために、今、目の前の支援者の期待に応えることをしないでいいのか、逡巡する彼は「かっこわるい」「かっこいい」とつぶやく。ここをもしかしたら不快に思う人がいるかもしれないが、私はその葛藤が、彼のなかで自問自答されている「人間としてどうあるべきか」という問いを立てたことの証拠のように思えて、「ここは、無所属で!」と軽々しく助言できない気持ちになった。
小川淳也氏は明瞭に語る。明瞭に語るから逃げもかくれもできない。いつまでも、そんなふうに語る政治家でいてほしい。それから、この映画がたくさんの人に見られて、政治ってこんなわかりやすいことでいいんだよね、と私のように期待を抱き直して、どんな国で生きていきたいか、どんな社会であれば幸福かということを自分のことばで考えてみたらいいなと思う。無気力を学習した人も、もういちど、想像力を働かせて未来を計画するプロジェクトに参加してみてはどうだろう。小川淳也氏の主張には賛成できないものもあるけれど、だから対話を求めていく有権者である自分の姿もまた見えてきたりして。