自分の幸せは自分で決める
下町の路地のような道を通り抜けて帰宅。おかずのにおいが漂う。白胡椒の香りはクリームシチューだろうか。
ちょっと嫌なことなんかがあっても、帰り道に「今夜のおかずはなんだろうねー」と思わず早足になるような、そんな小さな幸福が、人生の幸福というものの本質なのではないかと、いつからか確信するようになった。遠足に行く前の日の楽しみや、お正月やクリスマスのくるのを待つ間の、いつもとは世界がちょっと違う感じ、家族で見るクイズ番組や、新しい学年に上がる時にもらう教科書、夏が来る前の胸騒ぎ。
何回でも思い出して幸福になれる思い出だ。勝負に勝ってうれしいとか、人から認められてうれしいとか、そういうものもたしかに特別な歓びがあるけれど、もっと気軽に簡単にそこにあるような幸福感というのは、当たり前すぎてうっかり見過ごしてしまう。
幸福感からたくさんエネルギーをもらっている。ちょっと自己嫌悪、ちょっと人を嫌いになる、そういうときにはエネルギーを消費する。自分が誰かをうっかり傷つけたりするようなとき、うまくいかないこと、ミスをしたり、誤解されたり。エネルギーを消耗する。
子どもがすごく可愛い、子どもが3人揃って寝ている、そういう風景にも、自分の身に余る幸福を感じたことがある。エネルギー補給をしながら、たくさん失敗をし、消耗して、ぎりぎりの時もあったけれど、わたしのエネルギーは尽きなかった。
離婚して、自分はもう愛し愛されるという幸福のなかで死ぬことはできないのかと、さびしく考えていたことがあったようにも覚えているが、そんなことはもう全く考えない。わたしの周りには独身の人がたくさんいる。みんな好きなことをしている。病気になった時に、わたしは誰かに期待したり、甘えたりすることができない分、失望というものもないな、と思って、これって今の自分の当たり前だけど、気持ちはすっきりだなと思った。
自分の幸せは自分で決めるって、こういうことなんだろう。
あれ、矛盾しているんじゃない?って思われるかもしれないけど、そうじゃない。以前、友人が「すぐ離婚してもいいから一回は結婚しないと変な人だと思われる」と、随分本気で考えていた。共感できないなんてこと全然なくて、他人の言うことや、思うことが気になるの、よくわかる。でも、そこから自分が自由になると、本当に楽になる。
若い頃はなにかを成し遂げようとするのは、すごく自然なことだと思う。焦る気持ちもとてもよくわかる。でも、成し遂げることからの自由を手に入れると、本当に幸せを感じやすくなる。自分がだれを尊敬しているかを考えてみるといい。大きなことを成し遂げることはすばらしいけれど、身近にあるすばらしいことに気がついたら、もっと人生はあたたかくなる。
何者かにならなくてはという焦り、他者との戦い、時間との戦い。でも君は家族を、そばにいる人を、そっと幸福にすることの大切さだって、感じていた。だから、余計に悔しい。
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