ストイックな内容を書くことに意義はあるのか悩み中
ふと立ち止まってます。
私は、自分のこころの奥にあるエゴをえぐってしまうような作業も、これまでやってきました。でも、それをそのまま書いたらダメなんじゃないの?と、ふと思いはじめて迷走中です。
痛みを受け入れてえぐってしまうと、一気に楽になったから
自分の中にいる見たくない自分、こんな私でいてはいけないと思うような自分、あってはならない自分、そんな私が何人もいます。
そこから目をそらさず、存在していることを認めるのは、なかなか辛い作業となります。こころが何かの価値観に強くとらわれているほど、痛みは強くなります。
ときには、忘れることで救われているなんていうことだってあります。
私があえて見たくない自分を見ることを一度やってみて驚いたのは、最終的にはむしろ胸のあたりが軽くなって、脱力している自分に気付いたことです。
辛いのは一瞬で、あとはラクになってしまったのでした。
評価・判断からはなれると安心するらしい
師から学んだことを続けるうち、人には隠しておきたいような様々な自分を見つけやすくなりました。なぜなら、出てきたものを評価・判断する私の力が圧倒的に以前より弱まっているから。なので出てきた自分を圧倒的に責めなくなりました。
子どもが、怒られるのが嫌でうそをつくことがありますよね。安心できる空気感だと、正直に話せる場面があるじゃないですか。それと同じです。
見たくもないと思うような嫌な自分を見つけた時、そのネガティブな側面を、今はあっさり表現できてしまうことにも気づきました。
それを読む人は不愉快になるのかもしれない
たとえば、「私の体調不良は自分をまもるためだった」なんて、今は考えてます。もっと突っ込んで書くと、「私は母の子育てが間違っていると証明したかったからうつ病になった側面もある」と、思っているんです。自分で認めちゃっているんです。もちろんどちらも、複数ある側面のひとつにすぎないと、考えています。そして、他人にあてはめるつもりはありません。
これらについては、書こうと思えばいくらでも書けるんです。実際、下書きを始めてみたんです。
でも、はたしてこれを人は読みたいと思うのか?なんて思い始めました。
結構重い内容になりがちだし、何より読んでいる人のこころが痛む可能性もあります。
人によっては、私が母親のことを責めたり悪く言ったりしていると、感じる人もいると思います。
聴いた話でも読んだものでも、読み手のこころの内側にある何かに引っかかると、自分のことではないとわかっていても、その人自身が責められているような気持になったり、こころがヒリヒリ痛んだりすることがあるんです。怒りがこみあげる人もいるかもしれません。
読む人が不快になったりこころが痛んだりするのは、私の本意ではありません。
ポジティブであたたかな内容ばかりでは、私ではない
リアル生活では、私のことをほがらかでやさしくあたたかみのある人と、思ってくれる人がよくいます。
そういうイメージのことばかりをここで書いていけばいいのかなとも考えました。
ですが、それだけが私ではないし、いつか疲弊してしまうなと思ったのも事実です。
うつ病をきっかっけに気付いたのは、私の中にぎゅうぎゅうにおしこめられてふくれあがった、エゴの数々。その思考は、私をまもるために出てきたはずだけれど同時に、苦しめる結果にもなっていました。
師から学んだ単純なことを続けるうち、そういうものを嫌がらなくなりました。ただ在ることを認めるだけで、自分のこころを縛りつけて苦しくしていた鎖がどんどんほどけていったその過程を書きたいのになと、思っていたのです。
自分をただ良く見せるために飾ってしまうとしたら、それはかつての私と変わらない。良い人でいたいだけの私になってしまいます。
さて、どうしたものかな。
でもね、このnoteの世界が好きなんです。本当に様々な人がいて、すごく楽しい。なので、ここで書いていきたいなと思っているんです。だからこそ、何をどうかくのか、考えてしまうのでしょうね。
後日出てきた答えはこちら↓
私はこんな人↓
★師から学んだことを続けてたどりついた、母への思いはこちら↓
★母との関係に葛藤してきた記事の一覧はこちら↓