今死にたい人間がミッドサマーを見てはいけない、と云う感想
※映画ミッドサマーのネタバレを多めに含みます
日本上映前から話題であったミッドサマー。
今では、どちらかというと「失恋映画」や「セラピー映画」という感想が主流となり、当初流れてきた感想はあまり見かけなくなった。
「死にたい人間の背を後押してくる映画」
ショッキングな内容を含む映画として、様々な人間の好奇心を煽るような感想の中で、こんな感想も流れていたのだ。
前作、「継承」を見た人間はその感想にぞわぞわと好奇心がくすぐられるのを感じただろう。わたしもその一人だ。
映画鑑賞直後は、「なるほど、失恋とはこういう意味か」と納得していた。
ただ、「死にたくなる人間の背中を押す」ような感想は直後は浮かばなかったのだ。勿論、見終わった後は面白かったなぁ、という自信の感想で一杯で、このような────所謂「他人の感想」のことなどはすっかり忘れていた。
映画を見て、面白かったなぁと映画を反芻していたときにふと、「この」感想を持ったのだ。
あらすじ
アメリカで暮らす主人公ダニーは、恋人クリスチャンとの関係が破局寸前の状態で、妹が両親を巻き込んで自殺。
人類学と民間伝承に興味を持つ「ジョシュ」(知的欲求が凄い)
辛辣で人との距離感を上手く取れない「マーク」(ほぼ常にキメてる)
スウェーデン人の交換留学生「ペレ」(やさしい)
ホルガ村では、90年に一度「浄化の儀式」が九日間にわたって行われ、皆が着飾って様々な出し物をするというものだ。
スウェーデンに到着したダニーたち五人は、人里離れたヘルシングランド地方に向かい、ペレが育った小さな共同体があり、マジックマッシュルームをキメてさらに森の奥深くへと入ってく。
ホルガ村は太陽の沈まない白夜の地。木で作られたアーチをくぐった彼らは、楽園のような場所にたどり着く。
村には美しい花が咲き乱れ、同じ衣服に身を包んだ優しい住人が穏やかに暮らしていた。村人カラ笑顔で完成され、夏の光の中で行われる未体験の儀式と、不思議なマナーの食事。
ただ美しく優しい人々の中で、次第に不穏な気配が漂い始める。
セラピー映画の「視点」
映画を見た方なら、もちろんこれ以上あらすじをつらつらとつなげることも野暮だろう。
朗らかな共同体に居ながら、圧倒的な孤独と、騒がしいのに静かな村。
これはダニーの目を通しての村として撮影されているとのことで、映画全体の色が鮮やかなのは現実ではなく、そのもそも女性のほうが色の受容体が多いからなのだろうか? とも思った。
映画の結末としては、完全に村の一員となったダニーのさわやかな笑顔とともに締められる。
完全に村の中でのカーストが地に落ちたとはいえ、少女との裏切りを行った恋人を焼き殺すシーンは、ダニーへの共感が大きければ大きいほど、気分のいいものになってしまうだろう。
正直なところ、人間は残酷なのだ。
わたしはジョシュとクリスの気持ちに非常に共感してしまい、映画が終わった後は焼き殺されたクマの顔をしていた。
それは単純に、わたしが「共同体」というものが非常に苦手であり、独りが全く苦ではない。監督からしてみれば「自己中心的で個人主義」な人間である彼らに近しいのだ。
だからこそ端からホルガ村を「見る」対象として見ていたのだ。
勿論、映画なのだから見るのは当然なのだが、誰の視線で感情を持つか、でこの映画は感想が大きく変わるのだと思う。
ダニーの視線になってみれば、セラピーだ。失った家族と愛のある、全てがそろった楽園のような場所だ。
それ以外の者から見れば、プライバシーがなく、心の隙間を探られるような厭な感覚が常にある奇妙な場所ろう。
常に一定のリズムで流れる音と、麻薬の組み合わせは非常にトランス状態に人を陥れやすい。それに、宗教としての「神秘体験」は人の猜疑心を解きやすい。
常にそれを疑う無神論者でなければ、だれしも「もしかしたら神のようなもの」は存在するのかもしれない。その見えない力のために、何かを捧げなければいけない。そう思ってしまうかもしれないだろう。
実のところ、わたしは幽霊や神などを全く信じていない。どんな奇妙な体験をしても、それはすべて脳のバグだろうと納得してしまうし、もしそのようなものがいても、人間に干渉できるほどのエネルギーを持つはずがないと思っている。
ましてや神などが存在するならば、人間など創らないだろう。
ここまで言っておいてなんだが、わたしは無神論者ではなく理神論者だ。人間に関与しない大いなる存在はいるかもしれない。干渉しないならばいても居なくても同じだ。信じようと信じまいと自由にすべきだろう。
これは個人的な「宗教観」であるので聞き流していただいていいところだ。
要は前提としてこのような宗教観があるため、わたしは村を観察する「ジョシュ」「クリス」の目を通して村を見ていたということだ。
話を戻すと、ダニーの視点から見たホルガを多くの人が体感したため、セラピー映画となったのだろう。
焼き殺されたわたしは、結論からしてみればそのような感覚に至れなかったのだが。
死にたい人間の背中を押す
この感想を持った人間は前提としてそもそも「死んでしまいたい」と思ってるところにある。
うっすらと思っている程度ならば、自己の状況を改めて見直して、改善の余地がなければ改めて深く絶望してくれとしか言えないのだが。医者ではないので。
この映画で背中を押された死にたい人間とは、ダニーのほうに心を寄せた観客だろう。
映画を見て「救われた」ダニーを見て気づくのだ。
自分には救ってくれる共同体も、寄り添えるような人間も居ないのだと。
この「共同体」は何もホルガ村のような大きな(個人主義の人間にしてみたらあの人間関係はデカイ)場所でなく、メンタルケアのできる病院やセラピー、頼るべき両親や家族、友人。
両親が居たところで頼れない理由などごまんとあるだろうし、友人が居ても、自分の絶望に付き合わせるなどそう簡単にもできないだろう。公的な病院やセラピーが受けられない理由だって、腐るほどある。
だからこそ、自分の身を置けるような場所や、(ホルガの住人ほどでもないが)感情に共感してくれるような存在が自分には無い、救われないのだ、と改めて気づかさせられてしまうのだ。
もし、ダニーが救われなかったのならば、きっと死にたさの後押しなどはされない。ダニーが救われたからこそ、死にたい人間は救われない。
わたしからしてみたら、あれは発狂に近しいと思うのだが、深い絶望の中でどうにかなりそうな精神状態の中では、いっそ発狂してしまったほうが世界は楽しく思えるだろう。生きることが大切ならば、あれは救いだ。
余談だが、ホルガ村に似た村は、ロシアにある。
「終約聖書の教会」という場所である。ホルガと違い、民間信仰ではなくキリスト教系だけれど。シベリア・ペトロパブロフカ、タイガの森の中で救世主に目覚めたという一人の男が強烈な男尊女卑の教えを説いている。
思想は如何あれ、景色は非常に似ている。美しいのだ。そして宗教という心のよりどころのある人間は穏やかだ。
わたしは、宗教を「逃げ」だとは思わない。セラピーや病院と同じだ。自分を癒す、一つの社会的機能だと思っている。それが大きくなりすぎたり、その思想を他人に強要するのは問題であるが、個人が何を信じようと関係ないし、それで本人が幸せなのだったら何も憂うことはない。
病院で処方される自殺衝動を止める薬は明るい人間になるための薬ではなく、人から(死ぬ)気力を奪うもので強烈な眠さと倦怠感のなかで生きているのか死んでいるのか本人にも解らない状態になるってから、「元気」になるというのは正直無理がある。一生あの虚ろな感覚に怯えて衝動を抑えつけながら生きるより、そんなものに頼らずに思想だけで社会的に立ち直れるならばこれ以上のことはないだろう。
他人の人生に口を出していいのは、その先に責任が持てる人間だけなのだ。
ただ、乗っている車が崖に向かっていたらとりあえず止まれ、と叫ぶのは当然のように、離れがたい家族などの存在がヤバいものにハマっていたらそれを止めるのは全くおかしなことではない。
脱線したが、人には様々な事情があり、様々な理由で絶望して、娯楽的な刺激でなんとか延命しているような状態の人間はきっと多くもないが、少なくもないだろう。
そんな中で、まばゆい光と美しい景色と、絶望的な救いを見せつけられた人間は、足元がグラついてしまうのも致し方がない。
仕方がないのだ、と思う。
継承の強烈なホラーは精神にクるものがあったが、ミッドサマーはまた違う角度で強烈に精神にクるものがある。
娯楽としてみるなら、このような映画は好きだ。人の精神を撫でてくる映画────「死の王」や「ネクロマンティック」なんかが好きなので、この映画の重さは美しく好ましい。
劇中で使用される聖書を模した、話題のパンフレットも手に入れることが出来て大満足の映画だ。
映画をみて是非、絶望してほしいものである。