悪い種子
1956年版、映画「悪い種子」のネタバレを多分に含みます。
あらすじ
悪い種子(わるいたね)
上品で知的な、クリスティーン・ペンマーク(母)
可愛らしく服を汚したりしない少女、ローダ・ペンマーク
無躾で大多数の人間に嫌われている、リロイ(アパート清掃員)
遠足の途中に息子が事故死する、デイグル夫人
ローダを可愛がる、モニカ(アパートの大家)
陸軍大佐で今回仕事のため家を開ける、ケネス・ペンマーク(父)
父は軍人、母は繊細で優しい、恵まれた家庭に育つローダという可愛らしい少女は家族にも隣人にも愛され、何不自由なく暮らしています。
父ケネスが軍役のために家を空けることになり、母クリスティーンと大家であるモニカにローダは育てられることになります。
モニカはローダを我が子のように可愛がりますが、無躾で悪意のある男、リロイには冷たく接する、身内に優しくそれ以外には厳しいタイプ。
父の四週間の出張の間に、映画は進みます。学校で行われた書き取りの試験で、自分よりいい成績をとりメダルをもらった同級生の男の子クロード(デイグル夫人の一人息子)に対して驚く程の怒りをローダが見せる。
そのあまりの怒りに母とモニカは驚くが、母はそれを窘め、その場を収めます。
そして学校の遠足でローダの同級生の少年が溺死したのです。少年はクロード。
なぜ禁止されていた橋の近くへクロードが行ったのか、目撃者はいないまま、「事故」となりました。
帰宅したローダがショックを受けているのではないかと、母は心配しましたが、同級生が亡くなっても動揺したり悲しんだりする気配もなく、お昼を食べ損ねたと無感情に話すローダ。その様子から母親は不安を感じはじめる。
可憐な毒
上記のあらすじのとおり、簡単に言ってしまえばローダという一見純真無垢な少女が殺人を重ねていく。
メダルが欲しいという理由で、少年を突き落として靴で頭を打ち据えて殺害。
その事件に感づいたリロイを閉じ込めて放火。焼死。
さらに昔、同じアパートに住んでいたが、階段から転落死して亡くなった老婦人。
これらの人を直接的案描写がないものの、ローダが犯人であると明らかな確信を持って示されます。
そして、ローダの母親の祖母が毒を使う無慈悲なシリアルキラーという、その母親自身も知らなかった過去が判明し、クリスティーンはローダに薬を過剰摂取させ眠らせたあと、自らは銃でこめかみを撃ち抜き、無理心中を図りますがローダは「銃声で目を覚ました」ため生き残る。
しかし、母は命をとりとめ昏睡状態になる。そしてローダは雨の夜あの少年のメダルを川に回収しに向かい、水に手をつけたところで雷に打たれて死ぬ。
これがこの映画の結末です。
こんなローダをみて、わたしたちはあるひとつの言葉が思い浮かぶでしょう。
「サイコパス」という言葉を。
わるいたね
今でこそ「サイコパス」の言葉は浸透してその意味は間違いがあるものの、概ね理解できる性質となっていますが、この映画が公開された当時はそうではなかったため、この「種子」つまり遺伝子的な視点からその犯罪の理由を描いたものは多くはなかったそうです。
確かに脳科学が発展したのは最近のことであり、それまでは「環境的な要因」が大きいとされていました。
だが、極端な人間性の欠如については、脳の異常が大部分を占めているとの説が有力となっています。
少女の殺人気と聞くと、「メアリー・ベル事件」を思い出す。1968年5月から7月にかけてイギリスで起きた、少女による連続殺人である。
しかし、この映画は1956年に公開されたものであり、さらに原作である小説は、1954年にウィリアム・マーチが発表している。
ある種預言書のような形になってしまったのですが、連想してしまうだけで全く関係がないのです。
原作は、当時犯罪が低年齢化していたため、そういった社会問題を基盤に作成されたそうなのですが、犯罪は常に低年齢化しているものなのですかね(すっとぼけ)。
しかし、そう考えると、より「環境」ではなく「本人の資質」が目立つような気がしてならない。
環境が原因なら、道徳的な父母や暖かい家庭があればそもそも自分の欲求を他者を排除してまで得ようとは思わないだろう。
一丁前に道徳的なことを言っているが、これは単に「教育がいい」からではなく、心的な余裕と成長が違うのだ。
思春期や幼少期、人間形成に必要な時期にうまく「子供」をすることができないと、成長したところで「大人」になれないのだ。環境の安定は子供の成長に大きな影響があることは否めない。
しかし「サイコパス」的な要因のベースはそうではない。
環境だけが原因なら人の悪徳は家庭環境やそれ以外の生活環境によって生じるはずだろう。美徳もまた、そのように培われるべきだ。
だが現実は違う。
勿論、過酷な人生を歩んできた人間のほうが犯罪に手を染めやすい傾向はある。だが、至って普通の生活環境で、特に目立った苦労が無くても人は人を殺す。
珍しいこととされているが、実際のところ環境が整っており人生に極端な不満がなければ、その生活を壊す可能性を犯してまで犯罪に手を染めるメリットはない。つまり逆は然り。
失うものがなければ人間は所謂「無敵の人」だ。どうしようもない。
本作では、母が「悪い種子」を持っていたため、それが娘であるローダで開花した、という筋なのですが、これ関して母は非常に悩む。自分が「種子」を持っていたから悪いのだと。
この根底にある「子供」との繋がり。
『わたしは誰かの「子供」であっても全く違う感性を持った独立した人間である。』誰しもがそうだ。
勿論、環境が同じ親兄弟と感性が似ることはあるだろう。だが全く同じものを好きなわけではないし、嫌いになるかもしれない。ここに、少し時代を感じる。
昨今、自由主義が正義とされる傾向にあるが、子供はある一定の年齢まで「所有物」なのだ。これは今でも根強くあるが、子供は「人間」だ。当たり前だが、独立した人間なのだ。
そう思えば、もうローダだけなんとかすれば良かったんじゃないかと思う。クリスティーンはなにも悪いことをしてないのだから。……証拠隠滅はつきあったが。
だがそうはならなかった。ローダは「子供」だから。
映画では母は一命を取り留め、まるで天罰のようにローダは死にますが、原作では母は一命をとりとめるものの、ローダは笑顔で父を出迎えて終わります。
倫理的なNG(ヘイズ・コード)のため変えられたとのことですが、この原作の結末の方がよりリアルな「サイコパス」の人生のようで好きですね。
白黒ですが、様々な学説の出る前の映画、としてみるとなかなか面白い映画です。
何より主演の少女によるローダの演技が凄い。
きっちりと編まれたプラチナブロンドが全く乱れないのも、なんだが現実味が無くて美しい。
映画はモノクロなのですが、残っているカラー写真では輝くブロンドに桃色の服が可愛らしかった。