来世を迎えにゆく
「ボルタンスキー展」に最近行ってきたんですけど、脳味噌に展示内容がこびり付いて離れないので感想にします。
クリスチャン・ボルタンスキーの日本最大の回顧展(生涯を通した作品の展示)と云われたら行くしかないでしょう。
……嘘です、最初はそんなに乗り気じゃなかったです。立体展示はアタリハズレが大きいので、ちょっとなぁと思っていました。
ボルタンスキーの事を知らなかったというのもありますね。これはわたしの勉強不足です。全然関係ないですけど立体で一番好きな展示は「幽体の知覚」です。
ボルタンスキーに話を戻しましょう。
生と死の入り混じった立体展示を、なんといえばいいのか。既に一度死んで、人生をエピローグと思って過ごしているわたしには、非常に深く刺さりました。
綺麗で、薄暗くて、物悲しい。
ヒトの気配があるのに、ヒトの存在残滓しか感じられず、そこに確かにあるのは死という存在。
何処を見渡しても、私には死しか見えなかったのが、非常に、なんとも。きっと見る人によっては、────いや、「展示」と云うものはそう云うものなのだが、死だけはなく、生も感じるものなのだろう。
幽霊に囲まれて、突き進んだ先には「発言する」という作品のコートを被ったしにがみ。近付くと、様々な国の言語で語りかけてくる。
その中でも
「ねぇ、(死ぬ前に)光は見えた?」
という言葉が酷く胸に刺さった。
光は見えるのだろうか。
そんな事は、考えても判らない。実際のところ、死んでみなくては判らないが、わたしの場合は死ぬ寸前には暗闇しかなかった。
だからこそ、光を見たいと思った。
作者であるボルタンスキーは
「芸術家の作品は問題を提起するものであって、答えを出すものではありません。感動を与えるとか、そうしたことも関係ありません。ですから私が提起した問題から触発をされて、みなさん自身で問題を提起していただきたいと思います」
と云っている。なるほど、わたしはまんまと、死という問題提起に向かって自身で新たな提起をし、そして答えを得ようとしている。
噛み締めるスルメのような展示だ。これは記憶に残る展示の一つになった。
死と云うものは、得難い答えだ。何時の時代も。
展示図録を買わずにマグカップ買いました。
黒のマグカップ欲しかったんですよ。珈琲をよく飲むので、黒がいいんですよ。渋が目立たなくて……。
今ではメインマグです。実はマグを集めるのが趣味でして。コップばかりあって困る。