私とは何か?
いきなり哲学的な問いですが、そもそも私とはいった何なのでしょう?
古今東西、この問いに挑み続けた人類はついにその答えにたどりつきました。このnoteではこの問いについて解説していこうと思います。
「我思う故に我あり」
17世紀のフランスの哲学者デカルトが語ったあまりにも有名な言葉で、誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
「何かを思う」ということ自体が私が存在する証明だという論法なのですが、それは英語でいうと「I think …」の世界観で、すべては私が思うという主観の世界に閉じられてしまいます。
そうなると他者って一体何?という新たな問いが生まれてしまう。それについて、答えているのがヌーソロジーという独自の空間的宇宙論を唱える半田広宣さん。
「ヌーソロジー的私とは」
「私には顔がない。他人には顔がある。私という存在は他人から見た関係性の中でしか存在しない。
私という有限性は他者という無限性の中に存在する。
他者という無限性があるから宇宙は存在する」
え?どういうこと?言ってること分かりますか?
「他者は自己を写す鏡」
ヌーソロジーは独特の言い回しをするので、慣れないとチンプンカンプンなのですが、言ってることを私なりに日本語を使って解釈してみようと思います。
まず、「私」のことを「自分」ともいいますよね。
この自分という言葉は、「自ずから分かれる」から来ており、自然から分かれた存在のことを指します。それが「自分」であり「私」です。
この自然から自己を分ける機能を担っているのが左脳の働きです。左脳が何らかの原因で働かなくなると、世界全体と自己の区別がつかなくなり、全てのストレスから解放され、平穏な幸福感に満たされ、なんとも言えない心穏やかな状態になることを脳科学者のジルボルト・テーラーさんが語っています。
スピリチャルな世界ではよく、「他者は自己を写す鏡です」みたいなフレーズを使いますが、まさにこれが「自分」という本質を表している言葉です。
それは「鏡(かがみ)」という言葉を紐解くと腑に落ちます。
神(かみ)の中に我(が)が存在するから、か・が・み。
日本の古来の神道では「神」とは八百万、森羅万象、自然のことです。つまりこの世界すべてです。その「神(自然)」の中から分かれた存在が「我(私)」なのです。
「ワンネスと神の分霊」
スピリチャルな世界では「この世の全ては1つである」という概念として「ワンネス」という言葉を使い、万物は1つの存在としてつながっており、物事の間に境界はないとされています。つまり、「私」も「あなた」も同じ存在ということです。
先程の鏡の話を合わせると分かると思いますが、「ワンネス」は従来の宗教では神のことになります。私たち一人ひとりは神の分霊(わけみたま)であり、元は同じ存在という宗教観と同じですね。
「日本語は神の視点の言語」
少し話を戻しますが、「我思う故に我あり」のところで出てきた「I think …」という主観の世界観に対して、日本語はこの「I think …」という主観の世界観ではなく、主語のない文章を使うことがあります。
川端康成の雪国の有名な一節「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」を読んで、どんな情景を思い浮かべますか?
主語はいったい誰だと思いますか?
この文章を英語に翻訳すると
The train came out of the long tunnel into the snow country.
(汽車は長いトンネルを抜けて、雪国へと着いた)
となって、主語が汽車となり汽車からの視点になってしまいます。
しかし、私達日本語を母国語とする者で、汽車視点の情景を思い浮かべた人は皆無だと思います。もっと上から俯瞰した視点の情景を思い浮かべたのではないでしょうか。
実は日本語は元々神の視点の言語であり、「I think …」から始まる主観世界ではない客観の世界を表す言語なのです。
自分という存在は自分では見えません。鏡や他者を通じてしか見えません。つまりこの世界は客観世界なのです。
半田さんが語る「私には顔がない。他人には顔がある。私という存在は他人から見た関係性の中でしか存在しない。」というのもこのことを言ってるのです。
(ここからもう少し深堀りが続くのですが、こういったこの世界の深堀りや自立したコミュニティづくり、微生物など見えない世界を活かした無農薬の栽培ノウハウなどをnoteで共有していこうと思いますので、そのための時間の対価として、心ばかりのカンパをお願いできれば幸いです☘️)
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