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大好きな東北~⑥津波の恐ろしさを未來に伝えるために~

目指すは、陸前高田「奇跡の一本松」

夢のような1日を終え、宮古市を出発することにしました。とりあえず今日の最終目的地は仙台です。しかし、そこに至るまでに何ヵ所か寄りたい所がありました。先ず始めが、岩手県の陸前高田です。前年の2017に福島県南相馬の「奇跡の一本松」と出会いました。しかし、全国的に有名なのは陸前高田の「奇跡の一本松」です。陸前高田は岩手県沿岸部の最南端なので、海に沿ってただただ南下しました。途中で、釜石や大船渡などを通りました。今回は残念ながら素通りでしたが、また機会があればその辺もじっくり回ってみたいと思います。

「奇跡の一本松」を目指し、無事に目的地の陸前高田に着きました。お目当ての一本松付近に来ると、「一本松ホテル」や「一本松ラーメン」などの幟や看板ががあちらこちらに。いやー‼逞しい‼「転んでもタダでは起きない東北人」とあまちゃんのなかでも言っていましたが、まさかここまでとは‼アッパレです(*´∀`)ここに来る途中で色々調べたら、現在の一本松はレプリカだと言うことが分かりました。ということもあって、車の中から眺めるだけにしました。この奇跡の一本松を巡っては、色々とあったそうです。原因は保存費用です。数千万円かかる保存費用を巡って、「苦しんでる人に回した方が良いのでは?」「一時的とは言え、補助金を使って保存費用にあてるのはいかがなものか?」という意見もあったようです。それでも、「何とか奇跡の一本松を観光資源に‼」という思いがあったようですね。それがあっての「一本松ホテル」「一本松ラーメン」だったのかもしれません。(あくまでも、個人の想像です)


近くには当時の建物がまだそのまま残っていました

気仙沼で出合った龍

陸前高田を後にして、再び南下しました。次に目指すのは気仙沼です。地震のあったあの日、気仙沼は津波の後に大規模な火災に襲われました。津波で流れ出た燃料に火が付いて、その火が街中に広がりました。停電中の真っ暗な街で燃え盛る炎……。あの光景は忘れられません。

気仙沼に着いて感じたのは、当時の様子を思わせるような物が少ないということです。それだけ復興が進んでいるということでしょうか?とりあえず、大きな市場に行きました。気仙沼と言えば、海の幸です。しかしこの日は日曜日。漁港がお休みということもあり、市場にもあまり活気がありませんでした。仕方無く市場を出て、ふと壁を見てみると津波でここまで浸水しました‼という印がありました。4~5メートルはあったでしょうか。(すみません。あまりハッキリ覚えてなくて……)

市場から次の目的地に向かう途中に気になる場所を見つけました。気仙沼市内の「岩井崎」という観光スポットです。メインは、波の勢いで岩の割れ目からしぶきが高く上がる間欠泉です。その日はあまり波が高くなかったので、しぶきもそれほど高くありませんでした。そしてその間欠泉がある岬の先端に、変わった形をした松の木がありました。

通称「龍の松」とても神秘的なその姿

この松は「龍の松」と言われ、震災被害に負けずに立ち上がろうとする人々のシンボルとなったそうです。震災前は、回りに沢山の松の木がありました。ところがあの津波で、ほとんどの木が流されました。そして津波が引いた後、この松の木だけが残っていたそうです。人々はその姿を見て、「津波に立ち向かう龍」に例えたそうです。

そして、この岩井崎の近くには「気仙沼向洋高校」がありました。ここは震災当時の校舎をそのままま残していました。校舎のヒビ、割れた窓、そして3階か4階の窓には車が突っ込んでいました。地震が来た時、向洋高校には生徒と教師、そして工事業者合わせて200名以上居たそうです。生徒は内陸の中学校に、そして教師や工事業者の方は屋上に概ね避難して無事だったそうです。津波は屋上に迫る勢いで、工事業者の方の中には死を覚悟したという方も居たようです。日頃から防災意識が高く、海が近いということもあり特に津波に対しては避難が徹底されていたのでしょう。とっさの判断だけでは、ここまでの大人数を全員避難させるということはなかなか出来ることではないと思います。実際に避難している途中で「津波が来るから避難しましょう」と地元の住民に対して高校生が声をかけたそうです。にも関わらず、たいていの人は瓦礫の撤去なとをして避難しなかったという話もあります。気仙沼市向洋高校は、震災を語り継ぐ遺産としてそのまま保存することが決まったそうです。津波の恐ろしさを伝えると共に、「どうやって全員が避難するに至ったのか。」「近隣住民を一緒に避難させるには今後どうしたらいいのか?」といったことも語り継いでいけたらいいなと思いました。

大谷海岸駅~日本一海に近かった駅~

岩井崎から車で約15分位の距離に道の駅があったので、トイレ休憩がてら寄ることにしました。トイレを済ませ、少し買い物をして帰ろうと車に向かって歩いていました。すると小さな献花台が目に入りました。献花台の前に行き手を合わせました。その時初めて気がつきました。そこがかつて駅のホームだったということに……。そして、ホームの目の前が海であるということに。

小さな献花台(大谷海岸駅のホームだった場所)

後日調べて分かったのですが、ここは「大谷(おおや)海岸駅」という日本で一番海に近い駅だったそうです。電車を降りて、歩道橋を渡ればそこは海水浴場‼きっと毎年夏になると、多くの人で賑わっていたことでしょう。

歩道橋からの風景

ホームからの風景

屋上からの風景

ホームから見える青い海

この大谷海岸駅は、今は道の駅兼バスの停留所になってました。この後大谷海岸駅から更に南下したのですが、途中で線路があったであろう箇所が津波でえぐられてるところをたくさん見かけました。これは復旧は大変だな~。と思ったのですが、やはり同じ場所に線路を引くのは無理だと判断されたようです。費用の問題もあり、鉄道を諦めバスに切り替える所もあるようです。鉄道が再開したら行ってみたいと思った駅だったので残念です。でも仕方ありません。あんなに素敵な駅が、津波によって様子が一変してしまいました。改めて津波の脅威を感じました。

南三陸町防災庁舎

次の目的地は、あの南三陸町の「防災庁舎」です。私が訪れたときは、防災庁舎には近付けなくなっていました。まわりはほとんど更地になっていて、少し離れたところに献花台がありました。そこで手を合わせました。

更地の真ん中に建つ旧防災庁舎

震災当時役場の職員だった遠藤未希さん(24歳)の防災無線の話は、あまりにも有名です。それを美談として語り継ぐというのは、個人的にちょっと違うのかなと思います。確かにあの放送でたくさんの命が救われたのは事実です。しかし、家族や友人の悲しみは計り知れません。遠藤さんのような悲劇を繰り返さないようにしなければなりません。このような悲劇は取り上げられていないだけで、数えきれないくらいあったはずです。警察官、消防士、消防団、教師、保育所、介護師、看護師……。誰かの命を預かる職に就いてる方が誰かを救おうとして、大勢亡くなったと思います。そういう職に就いていなくても、同じように亡くなった方も居ると思います。

ある番組で、大船渡市の建設現場の監督さんの話を見ました。その方は3/11の数日前の地震で津波警報が出た歳に、作業員全員に避難指示を出しました。ところが、一人だけ避難場所に見当たらなかったそうです。慌てて探したところ、堤防で津波が来るかどうかを眺めていました。監督さんは「あなたが避難してないと、誰かが探しに行かなければいけない‼それが原因で探しに行った人が死んでしまうかもしれない‼」と言って怒ったそうです。その言葉のおかげもあって、あの震災当日は全員が避難して助かったそうです。「自分が避難しないことで、心配して探しにいく人がいる。そして、それが原因でその人が亡くなってしまうかもしれない。」これは、心に刻んでおかなければいけない言葉だなと思いました。そして、最後の目的地へ向かいます。

旧大川小学校

最後の目的地は石巻市立大川小学校(旧大川小学校)です。カーナビで大川小学校を検索して到着したのは、ごくごく普通の小学校でした。報道で見たものとは明らかに違いました。慌てて調べ直したら、現在は違う小学校と合併して新しい大川小学校になっていましたいました。あの時の校舎は大川小学校跡地として残されているのです。もう一度検索し直して、到着した頃には日も沈みかけていました。この大川小学校は、津波で児童74名、教職員10名、スクールバスの運転手1名が亡くなりました。私は、多くの児童と教師が犠牲になったということくらいしか知らずに訪れました。河口から4㎞も離れたこの場所で何が起きたのか?そして、今現在何が起きているのか?それを知った上で来ればよかったなと思いました。あの日大川小学校で何が起こったかというのは、誰もが知っていることなので触れません。しかし、今現在起きていることには少しだけお話ししたいと思います。

①旧大川小学校の校舎の保存に関して。この問題は結論が出てはいます。しかし、解決はしていないと思っています。地元の方は「校舎を見るたびに、あの日の辛い記憶が蘇るから取り壊して欲しい。」という意見が多いそうです。ところが、アンケートを石巻市→宮城県と範囲を広げれば広げるほど、「震災(津波)の脅威を未来に伝えるために残した方がいい。」という意見が多くなるそうです。これだけを見れば、地元の方の感情に配慮して取り壊した方がいいようにも感じます。しかし大川小学校の卒業生やあの日の奇跡的に助かった生徒達は未来のために保存して語り継ぎたいと言ってるそうです。どちらが正しいのかは分かりませんが、旧大川小学校はそのままの姿て保存されることが決まったそうです。ただ、遺族や地元の方への配慮として周りを木で囲って外から見えなくするという事も検討されているようです。

②遺族による集団訴訟に関して。こちらは未だに争っています。既に一審二審は判決が出ているのですが、被告である石巻市と宮城県がそれを不服としているのです。互いの主張には、2つの見方があるのではないかと考えています。(あくまでも、私個人の見解です)

原告側(亡くなった児童の御遺族)は、教師(学校)による避難の仕方に問題、過失があったのではないか?という点を訴えています。これに対しては、教師(学校)に責任を負わせ過ぎなのではないか?という見方もできると思います。河口から4㎞離れたこの場所に津波が来ると予見できたでしょうか?自信発生後直ぐの段階では、出来なかったでしょう。しかし子供を迎えに来た親御さんからの情報や、消防、ラジオ等でここに居ては危険だということは次第に分かったものと思われます。だからこそ、間違った場所ではありますが避難をしようとしたのでしょう。これは、気仙沼向洋高校と逆の事象です。地元の方の指示通りに避難していれば……。

被告の宮城県と石巻市側の主張は、教師(学校)の避難に落ち度はない。ハザードマップでは大川小学校は津波の浸水地域では無かったし、地元の避難場所になっていた。一緒に犠牲になった教師達の名誉のためにも争う。というものでした。ここで忘れてはならないのは、児童だけでなく、児童を守ろうと必死だった先生方とスクールバスの運転手さんも犠牲になっているということです。確かにマニュアル通りやった学校に、越権行為をしてマニュアルに無いやり方で避難をしろ。というのはなかなか難しいことかもしれません。しかも小学校のトップである、校長先生の居ない状況で。しかしこの被告側の主張も「亡くなった先生方の命を盾に、市や県が責任の所在をうやむやにしてしまおう。」としている感じも見受けられます。

私はこの一連の訴訟問題を色々調べました。その中で一生忘れられないであろう言葉がいくつかありました。その1つが原告団である遺族の方の言葉です。「私たちは誰一人、先生達を責めてはいないんです‼ただ、どうして子供が死ななければならなかったのか?どうして先生達は間違った判断をしなければならなかったのか?それが知りたいだけなんです。」そしてもう1つ。これは訴訟はせずに、大川小学校で語り部として活動されている、元中学校教師の遺族の方の言葉です。「先生方も一生懸命、必死に子供を守ろうとしたはずです。そして、あの真っ黒な津波に襲われた瞬間後悔したはずです。」二人とも涙を流しながら語っていました。先生方の名誉のためにも、市や県は管理責任を認め控訴を取り下げて和解して欲しいと思います。そもそも訴訟になった経緯として、教育委員会の対応への不信感があるのです。

この大川小学校で起こった悲劇。それはあの日起こったことだけではなく、今も続いているのです。児童の御遺族はもちろん、一緒に亡くなられた先生方の御遺族も苦しんでいるに違いありません。実際に、ある先生の息子さんが誰にも胸の内を打ち明けられずに苦しんで居たそうです。しかし大川小学校の児童の遺族会に連絡を取り、実際に会って話をすることで気持ちが楽になったと言っていました。早くこの訴訟問題が解決することを心から願います。

夕日に染まる北上川

大川小学校を後にする頃、北上川は夕日に染まりキラキラ輝いていました。穏やかな北上川を眺めながら、仙台へと車を走らせました。

長々とお付き合いありがとうございました。次回は仙台での楽しい夜の様子をお伝えしようと思います。

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