大好きな東北⑦女川の町~海が見える町としての復興~
巨大防潮堤を作らない町作り
私が女川町を訪問したのには、2つの理由がありました。1つはコバルトーレ女川というサッカークラブがあること。もう1つが巨大堤防を作らない町作りをしていることです。
名古屋の椙山女学園大学製作の動画
「海が見える町として復興する」女川町は、それをテーマに町作りを始めました。先ずは、居住地区を高台に異動させること。そして、駅や、町役場の新庁舎、商業施設の建設です。そして何より、巨大防潮堤を作らない町作りです。
これは、とても珍しいというか、画期的というか、勇気がいるというか……。賛否両論あると思います。しかしながらあくまでも個人的な意見と前置きをした上で言うと、私は賛成です。2017から何度か東北を訪れ、色んな町を見てきました。そのいく先々で見られた光景が、「巨大防潮堤の建設作業」です。初めのうちは「早く完成するといいな」とか「もっと税金使ってどんどん作ればいいのに」と考えていました。しかしいつの間にか、その光景に違和感を感じ始めていました。海の近くに居るはずなのに海が見えないという事に……。
確かに巨大防潮堤があると、安心感があります。津波を防いでくれるという安心感が。しかしその安心感によって、自分が海の側にいるということを忘れさせてしまいそうな気がしたのです。そしてそれによって逃げ遅れたり、人によっては避難することすらしないということも有り得るのではないでしょうか?そして、その避難しない人を見て更に避難しない人も増えるかもしれません。岩手県宮古市の田老地区でも防潮堤を信頼したがために避難せずに犠牲になった方が居たと聞きます。そしてこの大好きな東北シリーズ⑥でお伝えした通り、避難の呼び掛けに応じずに亡くなってしまった方もいます。避難しない人を探しにいくことで、その人の命が危険にさらされる事もあります。逆に岩手県の普代村というところでは、防潮堤により津波から町を守ることが出来たそうです。その普代村で一人だけ亡くなられた方が居るのですが、その方は船を心配して港に行ったのではないかと言われています。そして、村を守った15メートルの防潮堤。その上に100人ほどの漁業関係者が避難していたという事(もし津波が防潮堤を越える高さであったら……。)。遠隔操作で閉まる筈の防潮堤の水門が停電で作動しなかったために、水門を手動で閉めざるを得なかったという事(もし、津波の到達がもっと早かったら……)。これらの事からも、何よりも大事なのは、避難をするという事だと思います。
ここで、ひとつの疑問が。女川町の人々は、防潮堤を作らない町作りに反対はしなかったのでしょうか?
女川の復興は復幸
2019年3月11日私は女川駅前のシーパルピアにある「ガル屋」というbarでその疑問をぶつけてみました。その相手というのは女川町の老舗蒲鉾メーカー「高政」の社長です。barで呑みながらマスターとコバルトーレ女川の話をしていると「今あそこに居るのがコバルトーレのメインスポンサーの社長ですよ。」と教えてくれました。そこで「お話を聞きたいです‼」と言って向かいの席に座りました。コバルトーレの話を色々伺いました。
そして女川町の話へ。「巨大防潮堤を作らないという判断を女川はしたんですが、それに対する反発は無かったのですか?」と、私が聞くと「ありませんでした。」と帰ってきました。「町の復興計画の会議に国から派遣されてきた専門家が居ました。その方達(実際にはそい○らと言っていましたが……)は“先ず始めに防潮堤を作るべきだ”と言ったんですが、私達はその専門家達を追い出して町のみんなで考えて巨大防潮堤を作らないという判断をしました。」と教えてくれました。女川という町は今まで訪問してきた他の地域とは明らかに違うなと感じました。普通よりも、少し先の未来を見ているような気がしました。復興の先にあるべき、町の人たちの幸せ。つまり、復幸を。
因みにこの「復幸」という言葉は、女川町で行われる復幸祭というイベントから引用しております。
女川の人々
お話を伺った「高政」の社長さんも、津波で親族を亡くされたそうです。それでもとても前向きでした。高政の工場は被害をあまり受けなかったため、直ぐにフル稼働で蒲鉾を作って町の人に配ったそうです。町の人々による給水活動と、この蒲鉾の配布により、女川町では水と食料には比較的困らなかったそうです。
そんな女川町ですが、やはり震災後は人口がどんどん減っていきました。それに歯止めをかけるために、高政さんはある決断をしたそうです。それが「既存の従業員全員の雇用保証」 だったそうです。多くの漁師さん達が引退を考え、多くの企業が事業の撤退や縮小、休止を考える中での決断です。その意味を訪ねると「みんなこの先に不安を抱えて居ました。その不安を取り除くために、うちは全社員の雇用を保証しました。もちろん工場は稼働できたけど、材料の調達もできないし、売り先もない。だから当然売上もない。それでも、給料を払って社員の生活を保証してあげる事が大事だと判断しました。いくら住む場所があっても、仕事が無ければ人は住み着かないでしょ?」と仰いました。これを聞いた私は涙が止まりませんでした……。しかも、その決断にはもうひとつの意味が隠されていたのです。「高政が、社員の雇用を保証した。じゃあ、うちも頑張るか‼」そういう他の地元企業が増えて欲しいという願いもあったそうです。因みに高政さんは、震災前の従業員数よりも多くの人を雇用したそうです。(具体的な人数は忘れました。すみません。確か2倍か1.5倍だったかと。)
「いくら住む場所があっても、仕事が無ければ、人は住み着かない。」それは現地の人でなければ気付かないのかもしれません。そしてその住む場所に関しても、ある逸話を教えていただきました。「震災があって、最初はみんな避難徐で暮らしますよね?で、仮設住宅が出来たら大体がお年寄りとかが先に引っ越して若い人は後になるんですよ。でも女川のお年寄りは“うちらはここで年寄り同士仲良くやるから、若い人を先に住まわせてやってくれ”そう言って入居を断ったんです。」他の地域がどうだったかは分かりませんが、その話を聞いて驚きました‼町中の人同士が知り合いみたいな女川だからこその話かもしれません。
女川は本当に魅力溢れる面白い町だなと感じました。他にも、
町長がロック好きで、お祭りでは自らギター演奏をする。
アイドルを町に呼んで、町中でかくれんぼ(鬼ごっこだったかも)をする。
といったユニークな一面もあります。是非、皆さんも一度足を運んでみてください‼
女川の未来は明るい
私は、今回の旅で女川の町が大好きになりました。出会った人が皆さん明るくて、優しくて、暖かくて。「高政」の社長とお話ししたときに「すぐそこにうちの直売場があるから、時間があるなら明日の朝お腹一杯試食していって下さい。」と言われました。翌朝遠慮無く、たくさん試食しました。もちろんお土産にも買いました‼笑顔が素敵なおばちゃんが対応してくれました。「何処から来たんですか?」と聞かれたので「名古屋からフェリーで仙台まで来て……」と答えると、「羨ましい‼私も娘が名古屋(多分)に住んでるから遊びにいきたい‼」と仰いました。そこで私が「じゃあ、休みもらってのんびり船旅でもしてみたらどうですか?」と言ったら「そうですね‼定年になったら行こうかしら❤」と返されました。もう返す言葉さえ見つかりません。言葉の真意は分かりませんが、私には「仕事が楽しいし、会社が好きだから定年までは休みなんて……。」と言う風に思えました。
そして帰るときが訪れました……。車で町を出ようとすると、高台に横断幕が見えました。
高台にある横断幕
そこにはこう書いてありました。
「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」
これは、当時中学校1年生だった生徒が書いた詩です。そして彼は今、女川町役場で職員として働いているそうです。女川の未来は明るいと思います。私はそう確信しています。これから先、多分私は何度も女川の明るい未来を確かめに行くと思います。皆さんももし、私の「大好きな東北シリーズ」を読んで女川が気になったら行ってみてはいかがでしょう?仮に気にならなくても、近くを通るようなことがあれば寄ってみてはいかがでしょう?もし近くを通らなくても、「暇とお金があるけど、特に行きたいところがない‼」という人は行ってみてはいかがでしょう?
その時は感想や、私の知らない女川情報を教えて頂けると大変嬉しいです‼今回を以ちまして「大好きな東北シリーズ」はひとまず終了します。また9月に「サンマ収穫祭」に行くので、その時の様子をお届けするかもしれません。
お付き合いありがとうございました。
女川を照らす朝日
*今回私は、少し偏った見方で女川を見たのかもしれません。もし、私とは違う見方をされた方や、女川が直面している問題等があれば教えていただきたいです。次回の旅でその辺も見たいと思います。