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49BALLの歴史②

そろそろ49BALL(ふぉーくぼーる)の歴史第二弾を書いていこう。

あまりにも長々と書き続けて途中で全身が震えて筆を止めたのだが、今回はしっかりと続きを書いて行きたいと思う。

言って良い事や、絶対に言ってはならない事や、表に出してはいけない事があまりにも多くありすぎているので、なるべく表に出ても大丈夫そうな情報だけを歴史として刻んでおこうと思う。
ただ、一つ言っておくが、これは私の主観でもあるので、他のメンバー個々に思う事はそれぞれあると思う。

それは気になる人はメンバー個々に聞いてもらえれば幸いである。
何かと紐解いて行くと覚えてない事や記憶が曖昧になっている部分も多いので、こうして文面にまとめていくのも悪くない。

さて、早速本題だが今回は時を巻き戻して2008年位からの歴史になる。

忘れてはならないギターのRIKIが加入する前夜位からの話である。

RIKIと今は無きCLUB LIZARD YOKOHAMA

ギターのRIKIは、前は違うバンドをやっていて、そこに加入するかしないか位の頃に出会った。
当時、彼は高校生である。

こ、高校生だと!?(゚Д゚)
おいおい、随分年を取ってしまったものだと今思い返すと驚きを隠せないでいる。
彼との出会いは確か横須賀PUMPKIN
そこからちょこちょことライブハウスで会って話すようになって、そのうち仲良くなって行った。
自分が湘南に住み出した頃に遊んだり、職場が一緒だった頃もあった。
ツアーにもちょこちょこ付いて来て一緒に遊んでたら加入してた。
って流れだが、もっと紆余曲折しているのをギュッと縮めている事はご承知願いたい。

バンドを脱退した頃に即刻誘って、最初は断られたがそっからプライベートで遊ぶようになって入ってくれた。
当時ギターのEDDYが抜けてしまってスリーピースでやってた頃なので、とても嬉しかった。
なんとなくパズルのピースがカチッとハマった感じがしたのだ。
今の布陣が正規メンバーとして長く一緒にできているのは、紛れもなく答えとして出ているだろう。

とは言え、前のメンバーの時だって俺は好きよ。

RIKIは言葉のチョイスがとても好きで大爆笑をかっさらうエネルギーがあるのだ。
そして、優しさと狂気が完全に分離している難アリの二次元に逃避癖のある男である。
この文面だとパーソナルな部分が崩壊してそうな危険さが49BALLにフィットしたのである。

確かに演奏面で言えばテクニックがあって個性の強いギタリストは多くいる。
しかし、それ以上の魅力が彼にはあるのだ。
一緒に金の無い二人が住む湘南生活はなんだか今思い返すと面白いなーと感じる。
ワガママし放題な傍若無人なわたしと一緒に過ごしてくれてありがとうね。
色々とその説はご迷惑をお掛けしました。

RIKIとの思い出を語ればこのコラムがパンパンになって1万文字を越えてしまう位にエピソード盛り沢山なので、加入後の歴史をつらつらと書いて行くとする。

VO& BASS:CHANK
GUITAR:RIKI
GUITAR:NAKATECH
DRUM:NORISON

この布陣で再スタートを切った49BALLはまず手始めにスタジオワークで新曲を作り始めた。
そりゃメンバーも抜けてしまえば、新作を作らなければと、なるのは自然な流れである。
やりたい事も多かったし、できなかった事をやって行こうと思っていた。
新たな曲として作ったのが、『SHINE』である。

昔の事過ぎてあまり覚えて居ないが、今思い出せばこの曲ができた時、新たに一歩踏み出した感じがした気がする。
新たな『らしさ』を発見できた49BALLはEP【RISE UP】の制作に取り掛かる。
とにかくこの時期はストイックにスタジオに入っては新曲制作とやり続けてやり続けてやり続けて、色々ありすぎて昔の事過ぎて忘れている事も多い。
この頃制作をした曲は、どの曲も最近のLIVEのラインナップになって居る。

1.SHINE
2.RISE UP
3.LONELY
4.PRISM
5.PROMISE
6.TRACE

ジャケットはコレ

タイトル名となって居る『RISE UP』は初の日本語詞で作った曲である。
とは言え、このEPはかなり自信がある作品となったのと、マスタリングまでに総額60万円以上掛かっている事は内緒の話。
確か録音をしなおしたりもして、相当時間が掛かってしまったのもある。
やってる最中でボーカルの声質が変わったり、ギターの音を更に録り直したり等など、妥協無くやり尽くしたに近い。

金掛け過ぎ!

インディーズバンドあるあるだが、金は無い癖に、時間だけは無限にある。
この歳になって思うけど締め切りはしっかりある方が良いと思う。
多少の妥協が無いと完璧を追い求めても、その後でとてつもなく大スランプが待って居たりする。

売れもしないうちに大それた事をしようとするものじゃない。
ある程度反省点を残して、どこかしらで妥協をする事も大切かもしれないと、今となっては思うところでもある。
そして、次の失敗としてはレコーディングするところまでで満足してしまった事である。
その後のマーケティングの部分を全然やっていなかったからだ。
音源を売る為に何かをしていなかったところが失敗かもしれない。

そして、流通にも出して居ないのがまたおもろい。
色々と準備不足な部分が多かった気がする。
先日メンバーと話をしていたのだが、レコーディングであまりにも頑張り過ぎて、レコーディングで満足してしまった感じがするのだ。
人間はやり切ってしまう事は大切だが、その後も続く事を前提として今頑張らなければならないのだろう。

そんな感じでできたミニアルバムだが、予想とは裏腹にセールスも不振に終わる。
更に言えばその後でガタガタになってしまった気がするのだ。

何か先行させてしまったものが多すぎた気がする。
ここから49BALLはスピードダウンして行く事になる。

リリースイベントが豪華過ぎる

では、ここから少し話が分岐して行くのだが、確か2010年位からメンバーが個々にそれぞれの活動をしたりする。
バンドのサポートの然り、違うバンドに加入したり等など、かなり大きく流れが変わって行く事になる。

CHANKは、この時期からHCの世界に入っていく。
正直ハードコアはジャンルとしてはとても好きだったのだが、メタルも含めて非常に細分化されたジャンルでもあるのだ。
なので、当時はザックリHCが好きだったが、特に詳しかった訳では無い。
YCHC(横浜ハードコアクルー)の諸先輩方々と会う事になるのはこの時期からである。

SHOVE-ITのKATSUMIの紹介で加入させて頂いたバンド、それがDUNEである。

この辺の話はまた別の機会にでもしてみようと思う。

因みにSHOVE-ITはコチラ。

超カッケー!

そして、もう一つはNAKATECHが数年経過してから、THE PLANETSと言うバンドでギターを弾き始めた。
このバンドはPOWER POPを地で行くような素晴らしいバンドである。
またいつかライブを見てみたいと思うバンドだ。

そして、わたしは2011年の震災を経験しつつ、その頃からはアコースティックでもソロ活動を始めるようになる。
合計で3バンド位やってた気がするが、明確に覚えては居ない。

そうこうしつつchmod777のkinoさんのレーベルである『UNICAST RECORDS』よりコンピレーションアルバムの話が舞い込んで来る。

『V.A.YOKOHAMA LOCAL MANIA』である。

49BALLは『CAGE OF MIND』と、言う曲で参加をしている。
この曲を作った頃は確か2012年位にレコーディングをしていた曲である。
当時は非常に凝った楽曲制作をしていたと言うか、複雑な曲構成をシンプルに聞こえるようにする。
と、色々と練りに練って楽曲を作っていた頃である。

何よりCHANKがHCの界隈でリアルなHCサウンドを体験し、更に丁度2012年位に海外で流行して来てたEASY COREなる新たなジャンル等が出て来ており、更に可能性を見出していた。
つまりはミーハーな私はすっかりビートダウンにハマって居た頃である。
そして、その頃自分の中でトレンドだったバンドをサンプリングして行く事になる。
いや、パクッては無いのでここは敢えてサンプリングと記載しておく。

FACT
LOCAL SOUND STYLE
THE MOVIE ARCHIVES
FOR A REASON
COUNTLOST
日本のバンドで上記のようなエモくもあり、激しくもあり、真新しいニュージェネレーションな音楽が好きだった。
当然ながら、ライブを重ねれば重ねる程に、会場と一体感が欲しくなり、LIVE向けの楽曲を制作したくもなるのだ。

LIFETIME
KID DYNAMITE
PAINT IT BLACK
FALL OUT BOY
洋楽だとこの辺だった気がするが、明確に言えばもっとある。
とにかくハイテンションな感じが好きだった。

CAGE OF MIND:歌詞

歌詞を見れば一目瞭然だが、素晴らしい位にフラれ尽くした失恋の曲である。
なんとなく2013年の解散までの数年は雲行きが怪しいまま進んで行く事になる。
私生活も荒れて居たし、職場が倒産し、ニートになり、色々な会社を転々として借金を重ねていた頃でもあった。
ある会社に入った後、職場のパワハラ・モラハラにより、完全に仕事ができなくなり終了した。

ただ、バンドだけはギリギリのラインでやっては居たが、様々な面で限界に達していた。
その頃に作った49BALLの最後の曲がある。

『TAKE MY PAIN OF LIFE』

この曲は、友人のバンドと3マンライブをして、3バンドでスプリットを出した作品である。
何かから抜けたような心地よさと言うか、友人や猫に支えてもらいなんとか社会復帰ができた頃の友人達への感謝の曲である。

それと同時にネクストステージに上がる為の、決意のような曲であったと、当時を回顧して思う。
そうは言うが、その後まさかの事件が起きてしまう。

NAKATECH脱退。

2009年位のナカテック

そう、彼は脱退をしてしまったのだ。
その頃は私の結婚もあったり、公私共に様々あったのだが、メンバー間の心の溝が埋まる事は無かったのかもしれない。
とは言え、自分自身の浅はかな人間性が原因で知らない所でメンバーをおざなりにして、傷つけてしまっていたのかもしれない。
理由なんて後付けだし今となっては総じての事であろう。

ナカテさんはここからThe Planetsのギタリストとして活躍して行く事になる。
ちくしょう、ウチのNAKATECHをNTRしやがって。
どんなバンドなんだ?

超カッケー!!
むしろ俺が加入したい位だし、なんか楽しそうですこと!
そりゃ楽しい方向に人が進むのは当たり前である。

とにかく、様々な事象がトリガーとなり49BALLは解散を宣言した。
※なんか解散理由がナカテくんのせいみたいな文面になったが、そう言う意味ではありません(∵)

きっかけはなんでも良くて、自分の中でも、もはや湧水も乾いて、それでも水を搾り取って居た状況に近かった。
言うべき事を言い尽くして歌詞すら書けなくなってしまった。
やり切って燃え尽き症候群にも似た感じになっていた。

そして、何よりも2004年から走り続けてまともな生活ができた試しが無く、結婚を機に『普通の生活』なるものを体験したくもなったのだ。
長年のバンド生活のせいもあり、借金が膨れすぎて既に火の車でにっちもさっちも行かなくなってしまったのもあるのだ。
これが2013年〜2014年位の話である。

もう少しメンバーの話を聞けば良かったと思うし、尊重すれば良かったと今でも後悔をしている。
そして、ここからCHANKは『普通の生活』なるものを送る事になる。

が、しかし!

まさかの2年位で49BALLは不死鳥の如く復活をする事になるのだ。
なんてこったい。
周りの人間の本気の誘いなのか、悪ノリなのかは不明だ。
しかし、すっかり解散して名前すら聞かなくなったタイミングでLIVEに誘われた。
それが2015年位の事である。

『49BALLやりなよ!』

解散をした事を知ってか、知らずかは不明だが、声を掛けてくれたのはYOKOSUKA PUMPKINのPAのしんぺーさんである。

横須賀のレジェンドのふたり。

本当に機会を頂き感謝しかない。

勝手にフライヤー作ったら採用されたやつ

この日はまさかの横須賀かぼちゃ屋名物のヘルグラインダー(通称:ヘルグラ)を、飲み過ぎてしまい記憶が曖昧です。

しっかり記憶がありません。
しっかりベースは回していたようだ。

久しぶりのLIVEと、久しぶりの対バンの友人達、本当に本当に最高な瞬間だった気がする。

ちゃっかりAVNELでもサポートベースしてます。

いや、超カッケー!!!
この日は同窓会のノリで呼ばれただけだったので、ここからまた2年ほど時が経過する。
しかし、よく考えると時が経つのは思い返すと早すぎてドン引きである。
また再び『普通の日々』を、送って居た。

そして、解散中のLIVEと言えば善行ZでのLIVEも忘れてはならない。
※忘れていたので後日追記になります。

軍ss鶏のイベントに出演していた事が記憶から抜けていた。
全然記憶から抜けてました(∵)

なんだかんだで1年に1〜2回は同窓会感覚でLIVEはしてたんですね。
記憶は曖昧だから動画や写真は本当に大事ですね。

そして、2017年のある日、ついに解散状態でLIVEをしていた日々に終わりを告げる時が来た。

『49BALLやれ。』

これはもはや誘いでは無く、命令である。
この声掛けをして出れたのはCLUB LIZARD YOKOHAMAである。

結成数年位からずっと世話になっていたホームグラウンドであったライブハウスがついにビルの経年劣化もあり、その歴史に幕を閉じる日が来たのだ。
その最後の夜に49BALLは誘われた。
当然出ないと言う選択肢は無いに決まって居る。

2年ほど期間が空いていた49BALLはメンバーとはプライベートでは遭遇する事は多かったが、スタジオでの合わせは本当に久しぶりであった。
なんだかとても照れくさい感じもした。
そして、すっかり2年の間に曲を忘れて居た(∵)

常に前途多難な状況に自ら首を突っ込んで行くのが常だが、少しだけ多分はんなりと大人になった49BALLである。
きっと何か違いがある…と、思いきやそうでも無かったが最高に大盛り上がりだった事は間違い無い。
久々のステージ、ライブを見に来たみんなの笑顔。
そして、酒と楽しかった思い出と場所が一気に蘇って来た。

この日ある事を決めた。

『もう一度49BALLをやりたい。』

自分で解散を決めたにも関わらず、いとも簡単に戻る事ができるのか?
しかも数年もの間、曲の一つも作らずに居た。
しかし、こうして数年に1度でも呼んで頂けるのは非常にありがたい事だし、敢えて解散の道を選ばずとも良いと言う心の余裕まで生まれて居た。

既に解散から4年程時間が経過していたが、この古巣であったCLUB LIZARD YOKOHAMAの終焉の日と共に49BALLは解散を解除して、再結成となった。
2024年で結成20年とは言うが、少し時間が空いて居た時もあるのだ。

とは言え、その日を境にLIVEがあるかと言えば特に何もある訳でも無く、また平穏無事な何も無い平和な日々は続いて行くのである。
その頃には自分の借金も少しは片付き、生活面も安定をして来て仕事も落ち着いて、ようやく心に余裕が生まれて来た頃でもあったのだ。

そんな矢先、49BALL自体はやってないが、とある誘いがあった。
2019年頃、新たなバンドの誘いである。
THE PINK ELEPHANTSと、言う名前のバンドでここから自分の第二のバンドライフがスタートして行く事になるのだ。

さて、今回は2018年位までの話をしてみたが、この約10年は非常に心が折れていた時期だと言っても過言では無い。
それと同時に自分のパーソナルな部分が今思えばあまりにも脆くてだらしがない感じがする。
だからこそ失ったモノが多く、それと同時に多くのモノが手に入った。
新たなライフスタイルを模索し、音楽自体はある種、やり切って諦めた部分があったのだ。

だがしかし、人生とはどうなるか本当に分からないし、生きてりゃ良い事あるとはまさにこの事である。
自分の人生と共に49BALLは存在していて、右往左往する時もあれば、上下する事もある。

2回で49BALLの歴史は終わろうとしたが、第三弾も作る事に決めた。
それはなぜかと言えば、この第2弾とは比べ物にならない位に光輝いて今の世界が見えているからだ。
それと同時にこうして振り返る事も大事だと思うのだ。

今の楽しさの光は、必ず闇の部分が存在している。
だが、決して黒歴史では無く消したい記憶では無いのだ。

しょうもない都合の悪い記憶なんてヘルグラと一緒にとっくの昔に消えている。


そんな感じで、第三弾は2019年から現在に掛けての現在進行形の49BALLを書いて行こうと思う。

ここまで読んでくれて心からありがとう◎

んっあっんっんっ!


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