なるべく長く、どうか -ミュージカル『セロ弾きのゴーシュ』感想備忘録駄文-
ながーい前書き
2024年8月17日、その公演は初日と千秋楽を迎えた。
たった1日、2公演限りのミュージカル『セロ弾きのゴーシュ』。
かの有名な宮沢賢治の短編童話を原作に、歌と踊り、そして観客をも巻き込む生演奏を交ぜこんだ、Office8次元が生み出す子どもも大人も楽しめる観客参加型の賑やかなミュージカル作品である。
私は本公演で主演を務めた竹内黎(龍宮城)さんのファン、そして脚本の葛木英さんを勝手に敬愛する者としてこの感想文をしたためる。
すべての始まり、稲妻のような衝撃が走ったのは、遡ること2か月前ほどである。
「脚本:葛木英」「主演:竹内黎」
大声が出た。なんということだ。この並びを、こんなにも早くまた見れるなんて。
(お2人は音楽劇『秘密を持った少年たち』にてご一緒されている。私が英さんを知ったきっかけの傑作である)
そして演出、主催を務める淺場万矢さんが、有識者からの評判や過去の作品動画から、とても素敵な作品を作られる舞台家さんであることを知る。
幼いころからミュージカルに強い憧れを持ち、出演意欲が人一倍強かった黎君のミュージカル初主演が叶ったこと、それがこの盤石の布陣であることが大変喜ばしかった。
あまりに嬉しかったので、いち早くセロ弾きのゴーシュの世界を知りたいと、その日は何度も原作を読み込み読解に必死になった。
そう、実は私、恥ずかしながら原作を知らなかったのである。
勢いのまま周回してしまったので初読感想を書き残してはいないのだが、第一印象はたしか"狂気の人"だったと思う。
目を血走らせ睡眠すら削るほど一心不乱にセロを弾くゴーシュの様や、動物への態度から、凡庸を超えたいわば恐ろしさのようなものを感じたのである。
狂気的な努力、という筋ならば黎君に通ずるものが多かろうと期待を募らせること数日、さらに嬉しい発表があった。
作品発表後の大きな反響を受け、増席に至ったというのである。
さすが黎君!!!!!!!どんな世界にも言えることかもしれませんが芸能界は特に数字が先を拓くことも多いでしょうから、嬉しいことこの上なしですね。
発表の段階からこんなに幸せで良いのかと頭を抱えていたら、今度はビジュアル写真が公開された。
ふわふわヘアに特大笑顔、カラフルなセロと愉快な動物に囲まれた黎君が与えた幸福度は51不可説不可説転はあったように思う。
しかしあのどこか粗暴なゴーシュがこんなに可愛らしいビジュアルを…?いったいどんな世界観に生まれ変わるのか…?
何より、自ら「私の作品は登場人物が全滅しがち」と評すほどに、感動のためならば果敢にキャラクターを殺していく(語弊)英さんが、子ども向け作品を書く…?
とにかく想像がつかずワクワクが募るばかりだった。
1日限りの公演にしてビジュアル写真をはじめ特設サイト、豊富なグッズまでもが展開された。
ものすごく力の入った製作をして下さっているのである。ありがたやありがたや。
何か少しでも返せるものがあったのなら良いのだけれど、いつだってエンタメはもらってばかり。せめて創作に携わるすべての方々へ感謝を忘れずに。
早く本編の感想を書かんかい、という突っ込みが自分の頭に巻き起こっているが、最後に。
公演目前にしてフラワースタンドを置けるということが発覚し、遊泳区の素敵なご縁でつながった友達主催のものに参加させて頂いた。
天才的にかわいい。主催のお友達も、有志の皆様も、お花屋さんも、本当にありがとうございました。
自分は思い付きでミニチュアセロを作ってみたりもした。
図画工作の成績万年3、家庭科に至ってはミシンを破壊したこともある折り紙付きの不器用が力技で作成したためガタガタではあるものの、それっぽく出来たので満足。
急だったにもかかわらず想いの詰まったたくさんのお花がロビーを飾ったこと、黎君がしっかりと受け取ってくれたこと、一連の流れに一年分のハートフルを感じ取ることが出来た。これまた感謝が止まらない。
ようやく公演開始
大きなお友達も楽しいキラキラ楽器作り
入場時に確認された「楽器作りはご参加されますか?」に「はい」と答える小っ恥ずかしさもすぐに忘れ、気づけば真剣に楽器作りキットを選んでいた。
だって問答無用にテンションが上がる材料たちが目の前に並んでいるのだもの。
キラキラモールにいろんな模様のシール、色とりどりのマスキングテープ、、、子ども心が踊ってしまう。
ホールに入り暫くすると、お姉さんたちがしりとりをしながら客席を練り歩き始めた。なるほど、これが子ども向け舞台!
勇気をもって大きな声で思いついた言葉を叫ぶ子どもから元気をもらうことが出来た。
開場があたたまったところで、工作タイムが始まった。
壇上に映し出される説明を頼りに作りはじめる。タンバリンの本体材料を見て準備の手間を想像し、頭が下がってしまった。
丁寧な説明と、楽団員のお姉さんの親切なサポートで、若干の不安を抱いていた折り紙付き不器用も無事作り上げることが出来た。
タンバリンは思い出の一品として今も部屋に飾ってある。
遊泳区民(龍宮城ファンの非公式総称)が皆楽器作りに真剣で、終演後も見せ合いっこをしていたのが印象的。みんな童心にかえってたね。
手持無沙汰に楽器を鳴らしてみたり、知り合いの顔を確認したり、とにかくソワソワしながら開演を待つ。
近年まれにみる緊張の時間…(なぜおまえが)。
超高難易度入団試験?!
舞台に楽団員のパーカッション部(因みにこの楽団はゴーシュ以外すべてここに属する)が立ち並び、我々はものすごい熱量で迎え入れられた。
どうやら私は音楽団に入団したらしい……しかも町の音楽会の10日前……
新譜を入れるのにはなかなか厳しい時間ではあるが、努力しようじゃないか……
トントン、グールグル、パタパタ。
最初はよかった。お手元真っ二つ※みたいだね、なんて軽口叩いている余裕もあった。(※龍宮城楽曲「JAPANESE PSYCHO」に出てくる歌詞。ここの振り付けがグールグル待機姿勢と似ている)
ところが、そんなんでこの名門「金星音楽団」に入るのは許さん!とばかりに、超高難易度パートがやってきた。
確かに、だんだん難しくなるよ~!と予告されてはいたが、こんなに?!
あまりの手数の多さに、大きなお友達からどよめきがあがる。
何度繰り返しても覚えられないパートがあり、やっぱりこういうのは子どもの記憶力の方が優れてるのかなぁ…なんて悲しい気持ちにもなりつつ、それでもなんとかついていく大きなお友達たち。
得意の「ざーぶざぶ」は体からウェーブして全力投球しました(春空お揃いだね)。
先輩楽団員に基本を教わったところで、「俺は気難しい人間なのだぞ!」と全身でアピールしているような楽長が現れた。
だがこの楽長、新入楽団員にはかなり優しい。「好きにやればいい」と涙が出るほど温かいお言葉をくださり、感激したのも束の間、、、
ゴーシュ君!聞いてたビジュアルと違うよ!
運ばれるパーテーションの裏に白シャツ長身の気配。くる。くるぞ、、、
ゴーシュがパーテーションを破りアワアワと登場。マイクに乗って響き渡る黎君の声。この時を焦がれていましたっ!うわぁああ感動!やっぱりゴーシュはかわi……………
…………………ん?聞いてた話(=事前公開されてたふわふわイメージビジュアル)と違うぞ???
6:4で分けた黒艶直毛をワックスでぎゃんぎゃんに遊ばせ、まあ辛うじてふわふわしてると言えなくもないトップと跳ねた毛先がより一層のバチイケ感を演出……………そして、なんたって、k、黒細ぶち眼鏡 ェ?!!!!!
待て待て待てかっこよすぎるって。ゴーシュモテそうってそういうこと?!
(※英さんの娘様がちびっこモニターとしてリハを見学したときの感想)
(※今思えばリハ時は髪型作りこみしていないと思われるので多分そういう話ではない)
なんと心臓に悪い!なのについ見ちゃう!ああやめられない止まらない……
でも、お顔に気を取られてばかりもいられないのです。だって、脚が5Mある………………………………
サスペンダー×ストレートスラックスでハイウエストに見えることあるんだ………………………………?
いやないだろ。なにがどうなったらそうなる?
正直なことを言ってしまえば開演15分は脚の長さに気が取られて仕方なかった。
軽快な音楽にノッてるとき、ダンスにあわせて揺れてる時、ふとした瞬間に長っっ?!と二度見してしまうのだ。
そんなサスペンダー蝶ネクタイにしてバチイケビジュを誇る竹内ゴーシュ君だったが、舞台が進むにつれ、どんどん不器用さが前に出て、ゴーシュその人へと成っていく。
竹内黎主演、が観劇の動機ではあったことは確かだが、それを超越した物語の世界に引き込まれていくのだ。
焦燥のゴーシュ
舞台冒頭、音楽団の練習シーン、トッテッテッテーテテテッの音を外してばかりのゴーシュ。
アップテンポな音楽に楽長の辛辣な指摘がのせられる。他の団員も声を合わせてセロのミスをまくしたてる。
ゴーシュの焦燥感がイヤでも想像できる。
案の定、音楽を全く楽しめていないゴーシュ。
仮にも音楽を生業にする者でありながら「耳を澄ませないで」なんて。
か、かわいi…ゴホンッ。
確実に遅れてるし、外しているし、感情も足りないらしいのに、このセリフ。
怒られる恐怖、羞恥心が邪魔をして実力不足の自覚にも至らないよう。
傷つくような言葉を投げられ、周囲を拒絶し、孤立して、音が浮き、また下手をこく、、、悪循環である。つらい。相手に聞いてもらえる話術って本当に大切なんだなあ、、、
はぁ。それにしても「トーテッテッ」やら「トントンッ」やら「がーぶがぶぅ~」やら、真剣な顔して唄う黎君がかわゆうてたまらないな。ありがとうございます。
練習が止まって、改めて楽長がゴーシュを名指しする。
キッズには少し難しそうなセリフも原作のまま残されていた。
原作通りの言葉遣いのナレーションが、宮沢賢治の世界観を強めていく。
ドレミも、リズムも、協調性も、感情もダメダメなゴーシュは、泣きながら帰路に就いた。
OPオールスターダンシングパート
こちら、配信を見て書き足させてもろたパートです。サイコー!
・ゴーシュらしく大きな身振りで「ごうごうとひく」を体現する黎君、良
・背中が逞しくなられているようで、美
・ビブラート?の指使いプロっぽいすごい
・猫とゴーシュがニコニコ対面してるの尊い
・指揮する猫、ちゃんと生意気を表しているんだな~細かい~
・カッコウもゴーシュも美しか~バレエ調のダンスも今後増えていったら嬉しいな
・ずっと子狸みて満面の笑みなのありがたすぎ~劇中だと前日の余韻があるからさ~これこそifパートの良さ
・ゴーシュの音色に耳傾ける動物勢可愛すぎるから一時停止すべし猫ちゃんと猫耳もってるサイコー
・みんなで足トントンっ!長いね!かわいいね!
あまりに原作通りの三毛猫
家に帰ったゴーシュは「棚からコップをとってバケツの水をごくごくとの」むのだが、水を掬う仕草が大振りで、あれでは袖までびっちょびちょである。
そんな動作や飲んだ後の荒い息から、ゴーシュの音楽に対する不燃焼と、やり場のない怒りが伝わってきた。
そして最初の動物、三毛猫がやってくる。
この声の太さは笑わせに来てますやん。安川さんのnoteを読んで納得。関根さんは正真正銘おもしろ担当だったようだ。
観客を楽しませようとめいっぱいやってくださっているのが伝わって、演劇界の温かさを感じて、嬉しくなってしまった。
ずけずけと人の家に上がり込んで荒らしていく三毛猫と、それを追いかけまわすゴーシュ。その様トムジェリの如し。
他のどのもの物よりも、セロに手をかけられたときに焦りと怒りのボルテージが一気に上がっており、セロを大切にしている感情が垣間見える。不器用なヤツめ。
三毛猫とのデュエット。
原作の猫は不遜な態度が魅力だと思うのだが、そのキャラクター性が十二分に立った唄を歌い出す。
(曲調はプーさんのハニーハントBGMに近かったような…)
語尾の「にゃぁんっ」も、くねくねした身のこなしも、鬱陶しいのにどこか可愛げがあって憎めない、、、
そんな”歌を唄う猫”に翻弄されるゴーシュが返す、
このフレーズ、劇中で1番2番を争うくらい好き。
理由1つ目、動物が喋ることへのツッコミ。そこ拾ってくれるんだ!というメタ的な面白さ。
2つ目、「グルグル」の歌い方がほんっとにドツボ。やっぱり黎君のラ行はハンパない、、、
ライブではわざと、これでもかというほどの巻き舌をかましてくるわけですが、そうでない時もこんな含みのある”ル”になるんだぁと、、、1人悶えておりました。
ムカつき、苛立ち、怒り。
わかる、そりゃそうもなる!というほど三毛猫の演技が絶妙。
それに、子狸と違って彼は楽譜を持ってこない。”トロメライ”が何か判って当然、そんな態度が癇に障ってもいるのかも。
でもその怒りは三毛猫単体に向けられたものではきっとなく、、、
怒りが一線を越えたゴーシュは、突如奇妙に落ち着きを取り戻し、意地悪な笑みを浮かべ、ゆったりとした動作で耳栓をする。「印度の虎狩り」を弾くために。
本当に驚いた。楽器隊チェロ担当のヌビアさんと手の動き(ボウイングと呼ぶらしい)が全く一緒なのである。
正直、最初はその辺どうするのかなって、さすがの黎君でも弦楽器経験が無ければ難しいよなって、でも黎君ならやりかねないし……ってなMr.FORTUNE的感情で見比べたのだ。ほんとごめん。そしたらバッチリでさあ。もう、敬。敬しかない。
「印度の虎狩り」はヌビアさん作曲らしいが、不穏さとそして今回の大きなテーマの一つであろう怒りが詰まった、素晴らしいものだった。
この一曲がこの舞台の印象を左右しているといっても過言ではないほど、とてつもない存在感だった。
三毛猫の取っ散らかったような動きがすごい。身体能力と体力に感動する。それまでニヤつきっぱなしだった口角もひしゃげている。わずか2公演にして、関根翔太さん以外の三毛猫はありえない!という感情に…
そして、あのシーンがやってくる。
三毛猫が参ったところでゴーシュは演奏をやめると、悪魔と天使が同居した面持ちで三毛猫に近づいていく。
完全な悪の顔、というよりは、どこか2面性を感じさせる雰囲気がとても良かった。沼。
人ならば誰もがうっとり従わざるを得ない魅惑的な声音。三毛猫は「アッカンべー」っと挑発する。
片手で舌を掴み、もう片方の手で思いっきりマッチを擦る。そしてその炎でランプを灯した。
英さん!!!ほんっっっっとーに!!!ありがとうございます!!!!!!
原作を読めばわかるがここは本来ゴーシュの喫煙シーンなのだ。
「いやこのシーン叶うなら喫煙込みで見たいがキッズ向けなのでそれはなかろう黎君も未成年だしなとなると一連すべてカットされてしまうのだろうかあゝそんなこの意地い顔をしたゴーシュというか黎君のお顔が見れないなんてそんなことがあっていいものか神よお救いください、、、(息継ぎ無し)」状態だった私、英さんという神に救われました。大歓喜。
また、小道具はほとんど出て来ない舞台だったが、ここぞとマッチとランプが登場したのも良かった。クルッと回ったら点いている一連の優雅さ、さすがです。
大きなお友達たちは全員、あのシーンで目をキラキラさせていたことだろう。
さて、こうして幕をとじた三毛猫の部。
眠るのを忘れるほど練習するのということは上手くなりたいと思っているのだ。でも、その理由はきっと、怒られるのが怖いから。恥ずかしいから。ムカつくから。そんな負由来の感情ばかり。
ただ、たとえ負でも、感情に突き動かされた音楽、という実績を解除したことが三毛猫との時間の大きな意味だったように思う。
流麗で血腥いカッコウ
…が登場する前に、オリジナルのシーンが挿し込まれた。
練習2日目を終えた楽団員たちが、ゴーシュを前にしながら悪口を交わし合うというもの。
この日も楽長に絞られたであろうゴーシュをあざ笑う面々。
その中に1人だけ、ゴーシュに同情し、本気で心配したり落とした譜面を拾ったりしてあげる楽団員がいた。集団の悪口に乗らず逆の行動をとるときってすごくヒヤヒヤするし(この劇ではそんな描写は無かったけれど)自分まで後ろ指さされ始めて後悔しそうになるしうぎゃー!となる。それで救われる人がいるならまだしも
でも細やかな優しさって見え辛いし即作用するとも限らない。
慰めの言葉も「いや…」と否定するゴーシュ。
前向きな気持ちになることも、楽団員と心を合わせることも、到底できそうにはない。
そうしてその晩、また二時を過ぎても練習をやめないゴーシュの元に、青緑色の翼のような袖を携えたカッコウが舞い降りる。
素直で貪欲なカッコウと、それをバカにするゴーシュ。楽団員に傷つけられねじ曲がった心は、なかなか真直ぐにはならない。
2人のデュエットが始まる。
芯が強く華やかな歌声、滑らかで流麗な動きで観客を魅了するカッコウ役こと安川摩吏紗さん。バレエの身体遣いが美しい。
ゴーシュが鳥の歌なんぞこんなものだろう、と傲慢げに弾き始め、カッコウは一生けん命♪「かっこう」と歌い合わせる。
弾くのをやめてしまったゴーシュに「何か違います、どうかもう一度」と懇願する姿は高みを目指す高潔さで。
対して「ぼくが教える立場だ!」と頑ななゴーシュ。
カッコウはそれでも負けじと音楽だけ見つめ、遠慮も忖度もない素直な"一生けん命"さでお願いし続ける。
そんな姿に共鳴したのだろうか、ゴーシュはもう一度弾きながら、自らを省みはじめた。
カッコウの音楽への向き合い方と実力も認めたゴーシュは、同時に自分の実力不足自覚し始めるが、だからといって受け入れられるほどの心は持ち合わせていない。
またしても弾くのをやめ、カッコウを脅し始める。
不穏なチェロの音が響きわたる中、部屋のあちこちにぶつかるカッコウは赤い布を携えながら舞い、出血している様を表す。
続くリフトも、自然で、力強く、美しい、素晴らしい見せ場だった。
カッコウの部は、ゴーシュがドレミファの音程すら出来ていない自分の実力不足を自覚すること、悔しさでより優れているカッコウに嫉妬することが、大きな意味だろう。
その裏には、音楽への敬意や熱さが秘められている。でないと嫉妬なんてしないから。
余裕のないゴーシュは怒ったような態度をとるわ反発するわ、最終的には傷つけるつもりがなくともカッコウにけがをさせてしまう。
心を通わせたり、協調することは出来なかったのだ。
そして物語からは離れるが、「どんな意気地ないやつでものどから血が出るまで叫ぶ」カッコウを安川摩吏紗さんが、「十二時は間もなく過ぎ一時もすぎ二時をすぎても」練習をやめないゴーシュを黎君が演じ、2人が「眠らないで後れを取り戻そうとする」ことに共鳴している様は、苦くも眩しかった。(完成品だけを見齧っただけの一オタクが本当に恐れ多い話ですが。)
詳細↓
もし未読の方が読んでください。今すぐ。これはほっぽり出してすぐさまこちらを。愛と文章力が限界突破するとこんな素敵なものが生まれるんだ…と感動します。
ご注文は子狸ですが?
かわいいその一、客席をぽんぽこと歩くちゃいろくてまあるい物体。横揺れしながら弾むように歩く姿がたまらなくかわいい。
かわいいその二、ゆっくりしゃべる優しくあったかい声。子供特有の間延びする語尾がひっくり返るほどかわいい。
かわいいその三、急に話しかけられ、多種多様な反応をするお子たち。ある者は自信満々にステージを指さし、ある者は固まって母親の陰に隠れる。どれも頭抱えるほどかわいい。
つまり、かわいい!幸!これまで殺伐場面が多かったこの舞台のほんわか度をすべて補填。
かわいくてかわいい子狸、持ち帰りたい。ってなわけでこんな見出しをつけてしまいました。
(あ、かわいいけど、ちょっとびっくりした話。子狸役の吉井翔子さん、なんと、33歳でいらっしゃった、、、信じられない、、、5歳にしか見えない、、、普通に大人の世間話されてるのとか聞いたら脳がバグってしまいそう、、、役者さんってすごいわ、、、)
そんなゆるゆるな子狸と気性荒男ゴーシュのケミストリーがまた素晴らしかった。
顔を接近させガンを飛ばして威嚇するゴーシュと、はて?とマイペースな子狸。SEにも木魚のような明るい音が使われる。かわいい。緩急が良い。
(顔の近さ、身長差にドキッとしたのは内緒)
子狸の見せたジャズの譜面を、渋ることなく、むしろ自ら「さあ弾くぞ」と誘い出すゴーシュ。ものすごい変わり身である。
でもこの感情変化、なんとなくわかる気がする。嫌味も通じないほど純朴な子狸を前に見栄を張る必要はないし。
あと、何度も同じ曲練習していると、たまに違うの弾きたくなるんだよね。ピアノ習ってた時、クラシックの合間にJ-POP弾いて息抜きした記憶がある。基礎練(ドレミファ)じゃ息抜きにならんのよ、J-POPとか普段弾かないジャンル(変な曲である『愉快な馬車屋』)であることが大事。
サボり扱いで親に怒られるのだけれど、あの時間が一番楽しかった。
そう、ゴーシュも音楽を楽しみ始めるのだ。にこやかにセロを弾くゴーシュ、原作に拠れば「面白いぞ」と思っている。
さらに「狸の子がどうするのかと思ってちらちらそっちを見ながら弾きはじめ」ている。実際、子狸をずっと見つめる黎君。協調性以外の何物でもない。
毒気が抜かれたゴーシュは、子狸に「遅れている気がするよ」と指摘されても、怒らずに「そうかもしれない」と認める。
ジャズに触れることで、子狸と歩調を合わせることで、ゴーシュのリズムが合っていく。
そんで子狸と話している時は声音が優しいのよ。そんなんきゅんとしちゃうじゃんか、竹内ゴーシュ、、、
子狸は「ありがとう」と言いながら急いで帰って行ってしまい、ゴーシュは割れた窓ガラスの前に取り残される。苛立った昨日と、面白かった今日、そして明日に続く夜明け。
自ら寝床にもぐり込むゴーシュがいてよかった。
母ねずみの慈愛
もはや歓迎しているじゃないか。
母ねずみの必死の説明で、自分のセロで動物の病気が治ると知ったゴーシュは子ねずみを治すために弾いてやろうと言う。
この野ねずみ、ありがちな母親像に嵌っていないところがすごく好き。心配性で過保護気味の母親=周りを憚らないモンスターペアレンツ、と安直に描かれがちな昨今とは一線を画す人の(ねずみの)良さ。
そして、大げさではない慈愛の心。我が子を治してもらうため、という軸の上で成り立つ心配りや優しい言葉の数々。この加減が、桃菜さんの演技も相まって素晴らしく、とても好きなパートだ。
野ねずみの章は「あなたの音には心がある」と、この舞台の核となる言葉が出てくる。
動物たちとの逢瀬を経て、基礎、感情、協調を学んで言ったゴーシュの総まとめにも思える。
それに加えて、私なりの野ねずみパート解釈を。
音楽の身体性を思わせる歌詞たち。
(身体性ってたぶんそれぞれイメージが違うと思うけれど、そんな難しいことは考えず、文字通り身体に直結するという意味で使います。)
音楽を享受するとき、もっと言うと聴者側であるとき、演者側から放たれた音の波を自らの体に取り込み音を再生成していると思っている。
この歌詞は"あんま"としての役割を綴ったものであろうが、私からするとそんな感覚をものすごく腑に落ちるかつ美しい言葉で表してもらったようで感動した。英さん万歳、、、
音楽の身体性はもちろん、聴者側に限らない。むしろ一般的に音を奏でる動きや舞踏をいうことが多い。
セロを弾くこと、音に合わせ踊ること、ミュージカルという演目。
どの次元に視点を置いても必ずついてくる身体性が、音楽の、表現の核になっている。そんな風に受け取れるパートであった。
これを自覚しておくと終盤のあの歌詞がまた一層グッとくるんです……
もうひとつ自解釈話。
音の三要素は「音の高さ」「音の大きさ」「音の音色」という通説がある。
音楽の三要素は「リズム」「メロディー」「ハーモニー」ともいう。
音楽素人のざっくり感覚だが、「高さ」と「メロディー」と(楽団で合わせたときの)「ハーモニー」を、カッコウの「ドレミファ」で、
「リズム」を子狸との練習で掴み、音楽の素地を作り上げてきたゴーシュ。
では「大きさ」と「音色」に関しては、どうだろうか。
楽団員には「ごーすーごーすー」と馬鹿にされてはいたものの、楽長からは「音が小さい!」とか「音が汚い!」といった指摘はなかった。
野ねずみのパートは、ゴーシュの音の大きさや音色を肯定するパートであるようにも思うのだ。
ちなみに「音色」は私の中で、”同じカラオケ曲を同じキーで2人が歌った時、どちらも音程バーとぴったり合っているのに違って聞こえる”原因と定義している。
音の個性、ともいえるこの部分を、ゴーシュは強みとして持っていたのではなかろうか。それをわかりやすく伝えるために、「病気が治る」現象を採用したのかもしれないなと。
声音良すぎたが。水城先輩の「やれやれ…なかなか生きにくい世界だ」と併せ、思い出して強く生きるリスト入りです。
さらには王子様スタイルでパンまで分け与えて、まったく、優しいじゃないか(惚れた目)。ついでに母にまであげていたら完璧だった(厄介やめなさい)。
「ありがとうございます」と言われ、はじめて人の(ではなくねずみだが)言葉が響いたような顔をするゴーシュ。
「ねずみと話すのもなかなか疲れる」なんて、まったく不器用なんだから(歯茎全開)。
開幕、町の音楽会
ステージが華やかである!楽し気で!心も体も踊ってしまいそう!
音楽家ゴーシュ、面構え良し。音程良し。リズム良し。感情良し。
音楽に胸躍らせるゴーシュ。自信満々なゴーシュ。素晴らしいと称賛されるゴーシュ。
拍手!!!!!!!この時を待っていた!!!!!!!ゴーシュ無双タイム!!!!!!!
と盛り上がったのも束の間、、、
こんなんダメだよ。涙腺来ちゃったよ。あーあ英さんほんとうにこういうところ、、、
しっかり狙って書かれていると思います。本は演者さんに向けても書いていると仰っていたので、、、
ここでオタク論ぶちまけるつもりはないけど、ひとつだけ。
身体性、それはある意味強制的な有限を思わせる。どうにもならない域を、きっと本人すら願うしかない障害を、それに打ち勝とうとする気持ちと努力を、私は知っていなければならない。
黎君がこの詞に気持ちをのせた事実にありがとう 、、、でもくるしい、、、ありがとうございます、、、(情緒不安定)
気を取り直して、、、
もう一度拍手!!!!!!!打楽器楽団員を率いるゴーシュ、かっこいい!!!!!!!黎君、0番が似合う!!!!!!!
しっかり大団円を、練習終わり泣いていた姿から本番を笑顔で楽しむ様子への変化を見せてくれてありがたい。大人だってわかりやすいのがお好き。
でも、そこで終わる宮沢賢治では、英さんではありませんよね、、、
ゴーシュの好演も相まって大成功に終わった金星音楽団の発表。
実際に起こった会場の大きな拍手が劇とリンクする。拍手音のSEも途中から入ってたけど、必要ないんじゃというほどだった。
そこに司会者が現れ突然ではあるがとアンコールを要求される(ドラムの方が突然デカ蝶ネクタイをつけて司会者やくするのがかわおもろい)。
楽長になんか弾いてこいと無茶ぶりをされるゴーシュ。蛇足によって金星音楽団の絶賛を盛下げたくないがゆえ、ゴーシュに責任をとらせてやろうという卑しく意地悪な楽長の心、ひいては音楽団の圧に押し出される。
感情をこめて弾くことを覚えた彼を突き動かしたのは、またしても怒りだった。
0年0組出身故、永遠のテーマであろう、怒り。奇しくもですね。
再度、セロ奏者ヌビアさんとの見事なシンクロを見せつけられる。
ボウイングだけでなく、体の重心や首の振りまで、動きという動きが同期する。
2人の醸し出す迫力に会場が押される。我々はあの時間違いなく町の観客であり、金星音楽団の新入楽団員だった。
そして私的黎君の真骨頂を見たのは印度の虎狩り弾き終わり直後。
身を焦がす勢いの怒りからふと我に返ったような、キョロッとした顔で会場を見渡すのだ。
それにつられてこちらも、あらすじを知っているにもかかわらず、今のは何だったんだ…?という気持ちになる。
この切り替えがほんとうにすごい。
怒りに、音の世界に没頭したら、目やら口角やら雰囲気に余韻が残って普通だと思うんだよ。
そんなこと一切なく、あの一瞬の尺で切り替えられるのが、音楽劇から感じている黎君の実力です。
この言葉を使うの本当に慎重になるんだけど敢えて言います、黎君の器用さが拡げる表現があるし、黎君が達者だからこそ行きつく景色が絶対にあると思う。楽しみ。
観客と楽屋の面々の反応に首をかしげるゴーシュ。
楽長に褒められるという一大事においてもピンときていない。
怒り由来で孤立しているからだろうか?それとも彼にとってはじめての経験だからだろうか?
この虚しさはなんなのだろう。分析も上手な言語化もできない。普通の人ではないけれど普通の人でもあって、若いけれどそれだけではなくて…。いやこれごちゃまぜだし曲解だな?
分からないので、これからも向き合っていきましょう。
家に帰ったゴーシュはやっぱりすごい勢いで水を飲む。何が不燃焼なのか、はたまた燃え尽きたのか。
私は、君が君にしては素直になれた相手がカッコウで、なんだか嬉しいんだ。
おしまい
おわりに
『セロ弾きのゴーシュ』、どうやら宮沢賢治が病床で何度も書き直し、没後に最新稿が出版されたそうだが、私の中ではこのミュージカルをもって完成形、と思えてしまうほどだった。
実体化されたゴーシュの顔、声、仕草から人情が伝わってきて、ああ、セロが下手なゴーシュじゃなく、不器用に生きるゴーシュなんだ、と知ることが出来たのだ。
人間のもつ根深い葛藤が浮彫りで、すべての挙動に説得力があったのは、脚本、演出、そして黎君が役に向き合った時間の結晶だ。
黎君のゴーシュはどこか厭世しているような孤独なイケメンみも、かと思えば笑顔弾ける愛らしさも、どちらも兼ね備えた黎君ならではの姿だったと思う。
感想、他にもたくさん溢れてくるのですよ。
本番中にもPAがどんどん聞きやすいようにしてくださってたなあとか。
ナレーションの原田さんの表情めちゃくちゃ激しくてよかったなあとか。猫追い詰めタイム (印度の虎狩り)にめちゃくちゃ笑顔なの風情感じたよね
楽器隊の皆さんずーっと素晴らしくて憧れちゃうなあとか。
楽長のプンスカ感一周回ってかわいいとか。
大の大人の猫さんが余裕をもってくぐれちゃう黎君の股下とか。
キックするときの長い脚とか。脚とか、脚とか、、、(やめろや)(でも本当にすごかった)
キリないよねー。
英さんからの紹介という黎君だからこそ掴めた運と縁も、夏ツの合間縫って忙しいだろうに座組に褒めちぎられる実力の黎君も、口々に作品を優しいと評す演者の皆さんも、大先輩に「くんさん」づけされるのも、パリパリアイスにいくらおにぎりにwalkersにグラノーラバーに高麗人参も、コストコヘビーユーザー竹内家も、普段と勝手の違う楽屋で居心地悪そうな龍宮城も、ライブに即座に足を運んでくれる座組の皆様の温度感も、ハイカロリーな感想文達たちも、これら知れた経緯も、ぜんぶぜんぶぜんぶぜーんぶ、大切な思い出です。
全国のちびっこが日本文学に小難しくなく触れられ、物語性も十二分に満喫して向き合える、本当に素敵な機会だと思うんです。
これは!全国の児童館で行脚すべき!(関係者の負担は何も考えていません)
私が幼少期に見たらぜっっったい心打たれたし、何より宮沢賢治への敷居、ひいては読書への敷居が低くなる、人生を豊かにするきっかけになると思うんだ。
自分に子供がいたなら見せたい。サイアク響かなくても自分が面白いし。どうか!文化庁!全国行脚案を!(だから関係者都合をね?)
『セロ弾きのゴーシュ』を知ったのも、ここまで掘り下げることが出来たのも、あらゆる思想の再確認と進展を成してくれたのも、すべてこのOffice8次元様率いる皆様の、黎君によったこの出会いのおかげです。ありがとうございました。
観ていても、書いていても、本当に楽しかったです。やばい。書き終わるの寂しい、イヤだ。
これからも語り継ぐので、今日はこの辺で。
あなたの歩みには、力がある。人をふるわせる、そんな力が。
ご拝読ありがとうございました。