人や創作のオリジナリティについて考えた
前書き
最近AIアートというジャンルが流行っているらしい。テキストや画像の組み合わせやその加工を通じて生み出される(AIによって作られた)作品たちのことだ。
出来上がる作品の質は日進月歩なのだが、勝手に自分の作品をデータとして参照されるクリエイターからは反発の声が出るなど、賛否両論の様相を呈しているジャンルである。
星新一の作品で『神』という話がある。「神を作る」ことを目的とした研究者たちが世界中の神様にまつわるデータをコンピュータに入力して、人工的に神様を作ろうとするのだが、最終的にはコンピュータの姿が透明になり、天に昇り、ラジオからは世界各地の天災についての報道が…というオチが着く話だ。神様を作ろうとしている訳ではないけれど、創造主を作ろうとしている点でこの作品に近いことが現実でも起きていると思うと、技術は進歩したなぁと感じられる一方で、今後この技術がもっと進歩したときに、人の創作活動はどうなってしまうのだろうという漠然とした空恐ろしさを感じてしまう。
自分自身が特に何かものづくりをしている立場ではないけれど、コロナ禍で現実のコミュニケーションが希薄になったここ数年で、より強く創作のパワーを実感するとともに、それが生活に必須の要素だと感じるようになった。また、心血を注いだそれらの作品を見ていると、(自分でも何様だと思うけれど)同時に自分はこの世に何を遺すことができるのだろうか?=何も遺せずに死んでいくのか?という気分になったりもした。歳をとるとみんな土をいじり出すという話はよく聞くけども、もしかしたら自分と向き合う時間が長くなればなるほど、人は何かを生み出すことへの欲求が大きくなるのかもしれない。長く生きればそれだけインプットが蓄積していのだから、アウトプットすることへの欲求が大きくなるのは自然なことだし、そう考えると、創作は自らの人生をかけたアウトプットだと捉えることもできる。
一方で、AIが一足飛びでプロのような質の高い作品を生み出せるようになれば、特に自分のような凡人にとって創作は何を意味するようになるのだろうか?
プロと素人では考え方は全く異なると思うけれど、多分そこで求められるのは上手いとか下手という次元の完成度の類ではないだろう。それよりは、その人にしか作ることのできないというオリジナリティが今まで以上に必要になっていきそうだ。
そんな中、参加したワークショップやアート系のイベントを通じて自分なりに思ったところがあったので、備忘も兼ねて文章にして残しておきたいと思う。
「EAST EAST」というアートイベントに行った話
先日、都内のギャラリーの合同展示会+各種アートイベントといったような、いわばアート版フェスであるEAST EASTという催しに参加するために科学技術館まで行ってきた。
個人的には、人が多くて熱気が感じられたのは良かったけれど、ある程度差異はあるもののズラーッと並べられた作品たちを見ていると疲れてしまったので、途中からはずっと「座談会スペース?」のようなエリアで「SCAN THE WORLD」という作品に関わっている若手芸術家たちと、写真家・美術評論家等々の顔を持つ能勢伊勢雄さんという人が議論を交わすのを見ていた。途中から見始めたので、僕の解釈が間違っている可能性もあるけれど、AIアートについてもAIが「良い」と判断した(そうするようにプログラミングされた)ものしか生産されなくなるという内容の話があったと記憶している。これは、AIが「良い」と判断しないもの(=一定の倫理基準から逸脱したエログロや、あるいは政治思想なんかもあるかもしれない)がプログラムによって弾かれてしまって、作品に多様性が無くなってしまうことを危惧したものであったと思う。
似たような話で、最近は何かと便利になり、例えばApple Musicで音楽を聴いていれば「あなたへのオススメ」で好きなテイストの新しいアーティストを知ることができるし、YouTubeで動画を見ていればこれまたオススメされる動画で延々と暇を潰すことができる。僕が学生の頃は、いくつものサイトや個人ブログをブックマークしておいて、暇さえあればそれを巡回していたけれど、今はインスタを少しスクロールしたり、せいぜい他のSNSを少しチェックするくらいで、下手をするとブラウザを開いて検索エンジンに文字を打つことすらない日だってたくさんある。
様々なアプリを用いて、ネット上を縦横無尽に探し回り、自分が見つけたように思えるコンテンツでも、実際はビッグデータの活用技術によってGoogleなりMetaから「与えられている」んだな…とふとした時に意識すると、なんだか虚しい気持ちになって、自分の感性というものを信じられなくなってしまう。
AIの選別においても、例えばコンプラ的観点等々で「与えられた」ものばかりが生産→再生産されるサイクルを繰り返せば、そう遠くない未来にも、クオリティという観点では真っ当で素晴らしく美しい(ように思える)芸術作品がバンバン量産されるなんてこともあり得るだろう。
人の手を介さずして素晴らしい「創作」ができるのであれば、人の手で作るものにはよりオリジナリティが求められるようになっていく、そう考えたときに、過去に読んだり聞いたりした2冊の本が思い浮かんだ。
プルデューの『ディスクタンシオン』について調べた話
プルデューというフランスの哲学者が書いた『ディスクタンシオン』という本がある。実はこの本については実際に読んだことがあるわけではないので、文章にするのは気が引けるのだけれど、Twitterで目にした以下の内容に興味を惹かれて調べものをしたので、その内容をもとに触れてみたいと思う。
人の文化レベルは、その人が所属する階級や学歴、経済格差などといった様々な社会的なレイアーによって定められているという、かなり乱暴なこの論理は、だけども言わんとすることを理解することはできる。幼少期から一定の文化水準に属することなしには、クラシックも演劇も、アートにも興味を持つことはないだろうし、下手をしたらその存在を知らずに一生を終える可能性があるなんてことは考えるまでもなくわかる。
例えば僕にしても、兄が大学生のときに全身黒ずくめで帰省してくることがなければ、服に興味を持つことはなかっただろうし、その体験なしでは今全く違う職に就いていた可能性もある。そうしたら、周囲にいる人も全く違う感じになっていただろう。僕にしてみれば、あれが"稲妻の一撃"だったわけだけれど、後々聞いてみれば両親も所謂DCブランドブームの時にデザイナーズの洋服に触れてきた人たちで、(そんなことは微塵も感じたことがなかったけれど)僕たち兄弟にも少なからずそういったカルチャーに惹かれる素養はあったのかな、と思う。
話が個人的な方向に逸れすぎたので戻します。プルデューの主張は確かに一理あるのだけれど、そうは言っても当時と今とでは、我々を取り巻く環境があまりにも違うではないか、とはじめは考えた。
たとえば、現代はインターネットが発達して、いつでもどこでも他人と繋がることができるようになっているし、ものすごいお金持ちであったり、著名なミュージシャンとSNSを通じてやり取りすることだって可能だからだ。
その部分だけを見るのであれば、インターネットはこれまでの「階級」をぶち壊してくれるツールであるように思える。だけど実際には主義主張や世代、所得格差なんかを理由に日々断絶=階級の強化が生じているのだから、たぶんネットはそうはなっていないのが現実だ。
東浩紀『弱いつながり』を読んだ話
東浩紀の『弱いつながり』では、ネット上の関係性を「強いつながり」と表現している。ネット上の人間関係はワンタップで繋がりを断ち切ることができるけれど、案外その繋がりが自分の思考や行動を強く規定しているということだ。これは、現代においてはSNSで自分の見たい意見、好きなものを選別していくうちに、頭の良いAIが僕たちの趣向を学習し、ビッグデータの解析の下「相応しい」ものばかりを供給してくれるようになるため、いつの間にか見たいものしか見ず、聞きたいものしか聞かないようになってしまうことに言い替えられないだろうか。
こう考えると、ネット上の繋がりは似たような感性、似たような思考力、似たような価値観を共有する者たちが構成する見えない「階級」を形成しがちだと考えることができる。
同書の中では、だからこそリアル=実際の肉体で行動して「弱いつながり」を大事にすることが現代人には必要だということが書かれている。
リアルでの「弱いつながり」には、内面化していくネットでの強いつながりでは得られることのない偶然性や、生身の身体で実際に体験することでしか知り得ない情報がたくさんある。ネットの世界で生きていると、僕たちは(大体は母国語で)思いつく限りの検索ワードを使って調べることができる範囲でしか世界を切り取ることができないけれど、現実の世界では五感を使って自分の視野のずっと外、思いも知らないところから刺激をうけて世界が拡張される。
ネット上にはあらゆる知識が網羅されているように錯覚するけれど、それは単なる思い込みで、極端な話、飲み屋で隣に座った外国人と友人になり、他言語に多少明るくなれば、Googleの検索ワードだって変わるし、現実の人付き合いだって変わってくる。少なくとも、現在の技術レベルで現実の拡張性を獲得するには、同じく実存する肉体を用いて、現実の世界を検索していくしかないのだろう。
「溶荘」でのワークショップ体験の話
このあいだ、板橋区の「溶荘(@tokeso.tokyo)」という住居兼ギャラリーで、チンサプン・ヨキ(@yokithinsaphung)さんというアーティストのワークショップに参加してきた。
チンサプンさんが東京藝術大学の卒業制作で用いた作品を分解し、それを参加者が思い思いに再構築することによって、新たな作品を生み出そうという試みだった。
チンサプンさんは人と人との関わり(縁)を作品とするため、卒業制作の際、さまざまな人にドーナツ状の「円」を作成してもらい、それを組み合わせることで作品を作り上げたそうだ。
「円」の作成者は飲みの席でたまたま隣に座った人だったり、幼稚園児に作成してもらったものだったり、大きさも形も作成者の個性が強く現れているものだった。
それを参加者がまた思い思いに繋ぎ合わせることで、また全く別の作品になっていく。
まさに人と人との縁によって全く違う姿を見せる「円」たちは、この便利な世界で生きる僕たちに大事なことを教えてくれるような気がした。
本当の意味でのオリジナリティは、ネット上でどれだけ情報を漁っても手に入れるのは難しいのかもしれない。反面、街や野に出て人や自然と直接触れ合うことは、「弱いつながり=縁」を増やすことに繋がるので、未知のものに接するきっかけになるし、そういう知的好奇心を刺激する体験が新たな発想や、ゆくゆくはその人のオリジナリティに繋がっていくのではないだろうか。
結び
残念ながら、溶荘は本ワークショップをもって活動を終了しているけれど、理由は溶荘の主催者であるおふたりが活動拠点を移されるからだそうだ。また、チンさんも今後活動拠点を海外に移されるという話を聞いた。
その話を皆さんから聞いた時、「やっぱり新しいものを生み出す人は行動しているのだな」と、なにか繋がった気がした。
僕がこれから彼らのように物理的な変化を交えた行動を起こし続けられるかは、正直言って自分でもわからない。ただ、今回の学びをくれた溶荘でのワークショップ体験を忘れずに、これからも「えん」を大事に、「書=ネットを捨て街に出る」意識を持って生きていきたいなと思う。
追記
この文章は約一年前に備忘を兼ねて書いたままアップロードをしていなかったのですが、今年に入って学生時代に留学していたバルセロナに旅行する機会があり、同じようなことを考える機会があったので、せっかくなので追記してアップロードしてみたものになります。
十年ほど前に住んでいたはずなのに、今となっては記憶が薄れて現実に存在するかも疑わしいと思ってしまっていたバルセロナにも、一日飛行機に乗ったら、こんなにも簡単に行けちゃうんだ!と当たり前のことなのにびっくりしてしまった。
なんというか、分離していた過去と現在が繋がった気がして、たくさん街を歩きました。そうすると、学生時代に良く歩いていた通りもそこここが変わってしまっていて、街の匂いや音、スリに気をつける緊張感とかも含めて、懐かしさももちろんですが、新しいものに触れた時にしか味わえないワクワクがありました。
きっと、そこに生きている人にとっては生活が更新されているだけのただの風景に過ぎなくても、自分には注意すべきディティールに映るのが面白かったのです。他の人には見えていないものに価値を見出すなんて、まさに僕にしかできないことじゃないか?と思いました。
書を捨てて街に出るのも大事ですが、普段からこういった好奇心を持つことも大切だなと思った次第です。