あなたの記憶は、私たちの歴史である—「どこコレ—おしえてください昭和のセンダイ」
たまたまご縁があって、大阪にあるギャラリー「Port Gallery T」を運営されていた方から『映像試論100』という同人誌を出すのに誘われて書いたものである。
「どこコレ—おしえてください昭和のセンダイ」とは、せんだいメディアテークとNPO法人20世紀アーカイブ仙台の共催で第1回を2013年に行い、10年も続く恒例行事になっているだけではなく、全国各地で展開しているものである。思いついた当初は職場でもほとんど関心を持たれず予算も付かなかったが、個人的には(今思えば奇妙なほど)深い確信を持ったアイディアだったので、なんとか言葉にする機会を持ちたいとうかがっていて乗ったのだと記憶している。
現場は、20世紀アーカイブ仙台の方はもちろん、当時在籍していた展示に長けた同僚のおかげで手作りとはいえ良い感じになり、先端テクノロジーを扱う会社(ATR-Creative[現stroly])まで興味を持ってくれ、やはりこの確信は間違いではなかったと安堵した。が、担当としてはすぐさま別の仕事の立ち上げに回されたので、以降は20世紀アーカイブ仙台の方々と新たな担当たちががんばってくれたからこそ続いていて、自分自身の功績は小さなものである。なお、各地で行われるようになってから、少し当時考えていたことを学術的に説明もしておいたほうが良かろうと思い、2021年のデジタルアーカイブ学会で発表もした(鑑賞者参加型展示による地域写真の調査手法 写真展『どこコレ?――教えてください昭和のセンダイ』の事例)。
初出:『映像試論100』第2号/発行:Port Gallery T/2013年10月)
60年前に撮影された仙台の街並みの写真が並んでいる。おおよそ特別な出来事が写されているわけでもなく、そこに今の面影もほとんどない。そもそも本当に仙台なのか怪しいものすらある。しかし、ふらりと立ち寄ったらしき人がひとつの写真の前で身じろぎもしなくなる。声をかけると、写っているのは子ども時代の通学路だと言う。自分の家がこの写真の右側にずっと行ったところで、左側に抜けていくと小学校。奥に向かう道の向こうに友達の家があった。そして、この道は舗装され今あの道路になっている、と。
そのようにして、一点一点の写真、映像のなかの一瞬の風景について語る人々と次々と出会う。写真のなかの喫茶店のメニューを教えてくれる。封切りのたびに映画館に訪れた役者たちの名前を挙げていく。控えめな人はメモを残していく。
展覧会というにはだいぶ安普請で、にも関わらず一度足を止めたら食い入るように見る人が続き、さらには話し出したら止まらない。展覧会のような、井戸端のような奇妙な場「どこコレ-おしえてください昭和のセンダイ」(2013年1月19日-3月3日/せんだいメディアテーク)でのひとこまである。
それは、仙台の古い写真や映像を集めてきたNPO法人20世紀アーカイブ仙台の佐藤正実さんの「内容がわからなくて公開できない写真や映像をなんとかできないか?」という問いかけから始まった。さまざま話し合ってたどり着いたのが「わからないなら、見に来た人に教えてもらえば良い」という、なんとも単純な答え。
古い街並みの写真や8ミリフィルム映像、それも、そこに写された場所や出来事がよくわからないものだけを集め、会場を訪れた人々に教えてもらうのだ。写真や映像に解説はない。コピー機で拡大された写真には立派な額装も施されていない。その代わりに、写真の脇には大きめの白い余白があり、付箋紙とペンが置いてあり、会場監視のためではなく、訪れた人の話を聞くためのスタッフがいる。
連日、多くの人が訪れた。自宅から当時の新聞記事を持って解説してくれた人、たまたま隣り合って見ている同士で盛り上がる人々、写真のなかの知人の家を見つけ、連れてきた人もいる。 一月半の間に80枚近い写真が明らかになり、正直なところ、こんなにも多くことがわかるとは思っていなかった。
会期中、こんなささやかな企画に多くの人が訪れるのはなぜなのだろうかと皆で話していた。余白に付箋紙がびっしり貼られた写真を見ると「集合知」という言葉を思い出す。ITとはほど遠いアナログな方法だが、ウィキペディアのようなことが目の前で起きていたのだ。そして、お年寄りが嬉々として若い人々に説明している姿は、一人ひとりの極めて個人的な思い出が、数十年を経て価値ある知識に変化したことの実感をかみしめているようでもあった。 自分が目の当たりにしているのは、一葉の写真が、文字通りメディア/媒体となって、人々の記憶をつないでいる様子だった。
あるいは、そんな難しい言葉ではないかもしれない。日に日に「ここは○○だ」「いや、××だ」と付箋が重なっていくのは、単純に謎解きの楽しみであるようにも思えた。身近な風景の昔の写真は、それだけですでにそこに暮らす人々にとって格好のミステリーになり得るのである。
私は映像文化に関する学芸員などという肩書きを下げながら、普段まるで写真に関わることはない。だから、写真の取り扱いも写真展の組み立てもおおよそ適任とは思えないのだが、私情を挟むことがゆるされるのなら、仙台で生まれ育った人間の一人として大いに楽しんだ企画だった。写真の前に立っていたのは、親や祖父母たちから昔の街の話を聞いた幼いころの私だった。
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