ケイコ 目を澄ませて (監督:三宅唱/2022年)
『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督/2021年)や『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督/2021年)がアカデミー賞を取ったこともあり、ろう者を描いた映画、そして、ろう者を演じること、ろう者が演じることについて、多くの人が関心を寄せられるようになった昨今。撮影や編集など映画的な技術だけでなく、福祉、マイノリティーや労働問題などさまざまな視点から批評されるであろう題材をどう撮るのだろうという興味と心配は正直あった。ただ、監督がインタビューで「ボクシング映画は既に数多く撮られ名作も多い」と答えており、女性ボクサーと老トレーナーという組み合わせで『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド監督/2004年)を意識せずにはいられなかったであろうから、この映画の結末がリングでの勝利でないことだけは確信していた。
実際、この映画の本題はリングでの勝敗ではない。さらに言うならば個人的には、ろう者の世界をどう描くかですらなかったように思う。もちろん、先に述べた映画も踏まえ、ろう者の世界をどう描くかについて相当考えられていることは間違いない。しかし、私にはそのことよりも(私が聴者で、そのことの正確さを判定する知識や経験に乏しいということは十分あるだろうが)、その試行錯誤の先に見いだされたものに興味を引かれた。
それは、映画のなかでどのように〈会話〉を描くかである。会話とは、自分の考えていることを相手に伝えることであり、相手の考えを聞くことだ。お互いに意思を伝え受け止める振る舞いと言っても良い。多くの場合は共通の言語を使うのが望ましいし、そうでなければ、身振り手振りや、絵や音で説明することもふくめ、お互いにとってカタコトの言葉だとしてもそれらを駆使しながら行うものだろう。文字通りキャッチボールであり、会話とは二人の間にあるものと言える。キャッチボールの楽しさは二人にもたらされるものであって、片方だけが楽しいとすれば、それはすでにキャッチボールではない。そういう意味では、仮に共通の言語を使っていても、一方的に自説を開陳するだけのものは会話とは言えない。
『ケイコ 目を澄ませて』では、さまざまな方法でなされる会話の場面が描かれる。ろう者が主人公なので、当然のごとく手話での会話はある。声と手話を組み合わせることもある、あるいは、唇の動きや、カタコトの手話、ホワイトボードに殴り書きされる文字、聞こえようが聞こえまいがお構いなしの声と表情……単にろう者との会話と言っても、その日常には多様な会話の手法があることが示されている。しかし、単にろう者の会話を丁寧に描写したとだけ思えないものが二つあった。
一つは、サイレント映画のような演出のそれである。発話の場面のあとすぐに黒地に白文字で台詞が現れるのを見て「サイレント映画のようだ」と思うのはもはや少数派かもしれないが、この場面で急に映画史のなかに引き込まれる観客はいたはずだ。この映画は最近の問題に応えているわけではなく、間違いなく映画の歴史のなかに位置づけられているのだと。手話での会話内容を伝えるだけならば字幕を使えば良く、他の場面ではそうされているところもあるので、ここであえてこのような手法を使っているのには訳があるだろう。
もう一つは、手話だけでやりとりされるが、その字幕がない場面である。聴者である私は、この会話の場面で何が話されているか正確に知ることはできないどころか、会話を聞いている主人公の表情がアップとなるに到っては、映画を見ている誰もが会話の内容を知ることができない。手話は視覚的な言葉であるからだ。自分の知る範囲の映画でこのようなショットを目にしたことはない。それでもこの場面が撮られていることについて、映画としての意味を考えずにはいられない。
なお、この二つの場面については、長門洋平『三宅唱、あるいは映画における手話の聴覚性について』(雑誌「ユリイカ」2022年12月号)ですでに詳しく論じられているので、これ以上は踏み込まないで、会話をどう描くかということについて、もうひとつだけ触れるために戻りたい。
劇中繰り返されるジムの練習場面の一つである。この映画の制作においてケイコ役の岸井ゆきのが相当な練習を重ねたことは知っていたが、映画自体も練習場面が多く描かれており、その積み重ねが物語を進めていくようでもある。その物語の終盤にあるジムの場面。トレーナーである松本(松浦慎一郎)が言葉にならない悲しみを抑えきれず嗚咽したあと、ふたたびケイコとミット打ちを再開するところで、やはり言葉にならない声が響くとともに、二人のステップがスクリーンに映しだされる。それを見ていた林(三浦誠己)と練習生は、そのステップに呼応するかのように足を動かし始めるのだ。それはこの悲しい場面にあって、その重さを少しだけ和らげるおかしみをもたらし、なにより、ジムの仲間として言葉を交わさないけれども気持ちを分け合っていく様を上手に表している。まさに誰かの言語だけに寄らず会話の輪が広がる美しい場面だ。そういえば、三宅監督は本作だけでなく過去の作品においても、このような場面を描くことに長けていた。悪ガキたちがじゃれ合うように、ミュージシャンがリズムに体を合わせていくように、いずれも映画のなかで登場人物たちがどのように会話のキャッチボールを楽しくするのかを探求している。それはおそらく正しいことを役者に語らせるよりも難しく、大切なことであろう。
余談:
まったく重要なことではないのだろうが、会長(三浦友和)がかぶる赤いキャップはトニー・スコット監督のそれなのか、また、エンドロールの風景ショットのつらなりはフレデリック・ワイズマン監督を意識しているのか、監督に尋ねてみたいところである。
『ケイコ 目を澄ませて』公式サイト
https://happinet-phantom.com/keiko-movie/