まなざしの解像度
河北新報夕刊「まちかどエッセー」に2021年7月から隔週で8回にわたり書いたもの。「河北新報オンライン」が会員制になったというのでここに再録する。
この連載で自らに課したルールに逆らって書いた一篇。まったくの言葉足らずだが、それでもこういうことが書かれているのが新聞というものだろうと思って担当者にお願いしたら快く載せてくれた。
(初出:河北新報夕刊「まちかどエッセー」2021年10月11日)
前々回とりあげた映画『ドライブ・マイ・カー』(監督:濱口竜介)について、手話のできる知人がSNS上でコメントしているのを見た。紙面の都合上くわしくは書けないが、作中の手話のぎこちなさ、物語のなかでのその扱われ方、そして、上映において手話を使う人々への配慮が足りないのではないか、結果、手話という文化が作品の演出だけに使われてしまっているのではないかという問題提起と受け取れた。手話を解さない私は、そのことにまったく気づかず素直に感動していたのだけれども、映画とは画面の隅々まで作り手の意思によって作られたものであり、一方で受け手も自分の知識や経験を無意識のうちに総動員して見ているものだから、自分の無知を恥じ入るとともに、この問いかけを流してはおけないと感じた。
たとえば、現在公開中の『MINAMATA』(監督:アンドリュー・レヴィタス)は、ある写真家の物語としてすぐれた作品だった。ただ、子どものころ学校の授業や、大人になってから見た土本典昭監督のドキュメンタリーを通してとはいえ、水俣病とそれが起きた漁村の風景について知る者としては、違和感を抱く場面もあった。
おおよそ外国映画において日本のことが描かれる際、日本に長く住む人にとってなんらかの違和感を持つことは少なくない。日本の風景や文化に親しんでいる我々は、その場面を見る目の解像度が高くなるからと思われる。わずかな違いも気づくと同時に、自分たちのイメージが都合良く使われることにも敏感になる。とすれば、先の『ドライブ・マイ・カー』も、もし私が手話を使う人間だったら、今とは違う感想を持ったかもしれない。あるいは、その違和感をふくめても同じく高く評価したかもしれない。
文学などほかの表現においても、時代の変化などとともに評価が変わったり、時には修正を施されたりするものがある。あらゆる作品はひとたび世に出れば、さまざまな人の目や耳に触れるものだから、すべての受け手に堪えうる配慮を事前にするのは無理だし、一点の不備をもってむやみに作品を断罪すべきとも思わない。では何ができるのかというと、これがなかなか難しい。まずは作品をめぐって率直に語り合うことだろうか。