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『映画はアリスから始まった』(監督:パメラ・B・グリーン)

すぐれたドキュメンタリー映画には、いくつかの種類があるように思うけれども、そのひとつに、映画を見た後、濃密な講義を受けたような感覚を憶えるものがある。まさに「教育映画」ということなのかもしれないが、それは単に「勉強になった」ということだけではない。今まで知らなかったことを知るスリリングさと、その後の世界が変わって見える驚きを与えるという点で、陳腐な言葉だが「感動的な映画」である。

映画の原題となった「Be Natural」を標語として自らのスタジオに掲げていたというアリス・ギイの名前は、しばしば大学で映画について教える身でもあるので、どこかで読んだ記憶はあったものの、講義のなかでは口にしたことがなかったと思う。まずはその反省とともにこの作品のほとんどの場面を記憶することとなった。映画研究者の齋藤綾子氏がパンフレットへ寄稿するなかで「他の多くの女性パイオニアたちと同様に長い間歴史から姿を消されていた」とあるように、「女性であること」がその分野の歴史や、本人の仕事を正当に評価することを妨げているのは痛ましいことであるし、男性である自分にとって居心地の悪い現実でもある。

映画史というものにおいて、女性が果たした役割が大きいこと、あるいは、作品中でも語られるように、女性でもできる、むしろ女性だからこそできたことがあるのは頭ではわかっているつもりではいたが、果たしてどうだろう。映画の始まりにおいてリュミエール兄弟とエジソンの名を挙げつつアリス・ギイのことは忘れていたように、たとえば、映画の保存や上映において、初代シネマテーク・フランセーズ館長のアンリ・ラングロワ(1914-1977年)のことは説明するのに、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のフィルム・ライブラリーをつくったアイリス・バリー(1895-1969年)の名前はさらりに口にする程度であった(それにしても、たまたま2014年に行われた特集上映『MoMA ニューヨーク近代美術館映画コレクション』のカタログ編集を手伝ったからというだけである)。そのようなことは他にも思い当たる。教養科目の一つとして私の講義を受ける程度で、そのあと映画に深くのめり込んでいくこともない学生たちにとっては、映画は男性が作り出してきたものと印象づけられているに違いない。斎藤氏が指摘するとおり、それは他の分野でも同様であろう。

だからこそ、この作品が世に問うていることが大きいし、このような作品はこれから先もしばらく作られ続けることだろう。個人的な希望としては、いつかそもそも性別による評価の別が消えることを願っている。なぜなら、男性/女性という別もまた更なる壁となる性がある以上、最も良いのは「ただ人として」その人や仕事を見ることができることのように思われるためだ。

しかし、それは自分が単にフェミニズムの歴史をよく知らないがゆえの夢想に過ぎないかもしれない。公民権運動を経た現代のアメリカ黒人の多くがそうであるように、または、昨今の「文化の盗用」について講義でふれると大半の学生は初めて自分が盗まれる側/弱者の側であったことにまず驚いて次に繊細にも憤るように、常に差別は残り、それに抗い続けることが人間の本質のひとつであるかもしれないから。

おまけに。
これが余談として書かざるを得ないところが悔しいのだが、この映画の白眉は、多くの表現の黎明期に現れる自由さ(ある種の蛮勇)が映画においても当然あり、それが今日のYouTubeなど動画にも起きていて、映画/動画の歴史的なつながりを、アリスの作品を通じて見せている場面だろう。


『映画はアリスから始まった』(監督:パメラ・B・グリーン/2018年/103分)
http://www.pan-dora.co.jp/aliceguy/

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