鈍行旅日記(監督:福原悠介/2023年)
10代後半から20代前半まで、わりと好んで一人旅をしていたように思う。とは言え、おおよそまめに旅の計画を立てることもなく、道中に見知らぬ人と交流するほどの社交性もなかったので、最低限の目的地とそこへ到る安価な方法を考えたら出発し、結果、移動時間は飽きるほど長く、目的地に着いたところで時間を持てあまし、喫茶店でコーヒーを飲みながら持参した本を読んでいるといった体たらくが多かった。今にすればそれが最も贅沢な旅の一種だと思えるけれども、当時なぜそんな旅に出るのか自分でもよくわからずにいた。一人旅は退屈である。それが良いのだが、しかしやはり退屈ではあるのだ。
その言葉もひさしぶりに聞くような気もするが、本作は文字どおり鈍行に揺られて各地を旅した記録である。2022年初夏、自身の作品が上映されるというので仙台から九州へ向かいがてら、敬愛する映画にまつわる土地をめぐる旅だ。意図したものかはわからないが、災害や公害といった、大きな厄災の記憶をとどめる場所を多くめぐる旅にもなっている。しかしながら、象徴的な場所や建築はほぼ現れない。それどころか、抑揚のない声で読み上げられる日記で取り上げられている事々のほとんどが映像に映されない。旅の風景と、道中にしたためられた日記の朗読によるこの映画では、奇妙なまでに見えているものと語られることが一致しないのだ。語られるエピソードはユーモアがあるのに映像はそれに奉仕しようとはせず、モニュメンタルなものにレンズを向けないまでも映画的には正しい位置にカメラが据えられているとは理解できる画面の説明を、声のほうは一向にしようとはしない。
もちろん、本作の紹介で事前に説明されているように、これはシネ・エッセイであるから、そこでたとえばクリス・マルケルの名前を思い出せれば何ら奇妙なものではないだろう。そもそも、映画に取り上げられた場所をめぐる映画なのであるから、十分にシネフィル的であり、情報や感情を圧縮して伝えることが正義とされる今日テレビやネットにあふれる映像、いくつかの映画_もうひとくくりに「動画」と言い換えても良い_に辟易している人間には、これくらい徒然なるほうが心地よい。抑揚のない映像と抑揚のない声は、暗闇に浸るようにして向き合うには最適である。一人旅はやや退屈なぐらいがちょうど良いのだ。
しかしながら、この徒然なる旅日記はそのままには終わらない。のんびりとした一人旅の道中に、あるいは、いささかおどけた調子で進んできた(その実、カメラの位置だけでなく編集も巧みな)映画の終わりに到って、根源的とも言える問いを投げかける。それは作家本人が、2011年3月に起きた東日本大震災を記録しようとするさまざまな人々に関わり、自分もその一人となってきたなかで抱いた、これら記録されたものは未来においてどうなるのか?という問いである。
映画ではそのことについて答えめいたことは示されないものの、別のところで作家本人が思うところを書いているので興味のある方は参照されたい。
せっかく一人旅に伴走した観客として、私も一言書き記しておくならば、ここで問いかけられたおおよそ記録というものは_偉大な先人たちが残したドキュメンタリー映画も、東日本大震災をめぐる市井の人々による映像も、そして、iPhoneで撮られたこの『鈍行旅日記』も_、それが撮られたときには、まだすべての意味を語りだしていないものなのだとは言えないだろうか。もちろん、記録しようと人がまず立ち上がるとき、そこには後世に伝えるべきものであるという確信と決意があることだろう。しかし、残された記録が未来において何を語りだすのか、あるいは、未来の人々が何を聞き取るのかは、結局のところ、その人にも、その現在においても、わからないものなのかもしれない。
『星空と路―3がつ11にちをわすれないために—』(2023年3月8−12日/せんだいメディアテーク)
https://recorder311.smt.jp/information/63185/