スチェンカ

 また面倒ごとを背負いこんだな、という月島軍曹のため息を背に俺は拳を打ち合わせた。スチェンカ。殴り合い。こんなところに入墨の囚人がいるなんて。もしかしたらその入墨の囚人を餌にキロランケ達を吊り上げられるかもしれない。そうすればきっとアシリパさんに会える。俺の無事を伝えてあげられる。白石だけではやはり不安だ。一緒にいるのがあいつら二人なら尚更。

 一戦目は呆気なかった。ロシア人に煽られて月島軍曹もその気になっていたからだ。体格差は歴然としていても、こちとら死線を掻い潜った百戦錬磨の日露戦争帰りだ。こんなところで負けるわけにはいかない。いつもは女々しく泣いている谷垣すら最後まで倒れずにロシア人を殴り倒した。その肉のついた体をぺちぺちと叩き、鯉登少尉は、
「まさに肉の壁だな。太り過ぎもたまには役に立つではないか!」
 といった。谷垣は乳首を叩かれて「ヒンッ!」と泣いた。

 八百長を持ち掛けられた時はただ頭に来た。犬を盗んでおきながら図々しいにもほどがある。中途半端に生えた毛をむしりとると、男は情けない声を上げた。烏合の衆の樺太先遣隊ながら満場一致で情報の為のスチェンカ再戦が決まると、俺は少しほっとした。たとえそれが微かな希望でも、アシリパさんに繋がるものなら何一つ取りこぼしはできなかった。
「犬を取り戻せて、アシリパさんの情報も手に入れられる。全部きれいに丸く収まる妙案が俺の頭の中にあるから、遠慮せずに全力で殴り合え」
 そう言ったのは半分はったり、半分本当だった。岩息舞治の入墨をだしにあいつらを吊り上げる。キロランケの真意がどうであれ、アシリパさんを連れ去ったのだから目的は金塊のはずだ。それならアシリパさんはもとより、金塊に繋がる暗号の彫られた入墨人皮は一枚でも多く手に入れたいはずだ。一緒に行動していた時も、俺はキロランケに手持ちの入墨人皮を全て見せたとこはない。アシリパさんがいくら暗号の解き方を知っていたとしても、結局は入墨人皮が必要になるはずだ。今キロランケの手元にあるのは白石の入墨人皮一人分。俺の持っていた入墨人皮はみんな鶴見中尉に渡してしまったから、それをどうやって取り返すのかはわからないが、尾形がその手引きをするのかもしれないし、もしかしたら尾形を通じて鶴見中尉と取引をする可能性だって否定はできない。どちらにしろ騒ぎの中心にいるのはアシリパさんだ。それだけは間違いない。

 岩息舞治の拳は一撃一撃が重かった。脳の奥から揺れるような。どんどん意識が混濁している。俺は、俺は、俺は、俺は。まず目の前の敵を倒さなくては。アシリパさんのために。アシリパさんの安全を確保しなくては。あの子をこんな危ないところに連れてきちゃいけないんだ。あの時だって俺にもっと力があったら。あの時あの子に手が届いたら。あいつらの企みに気付いていたら。
「どうしてそんなに怒りを抱えている?」
 これが怒らずにいられるか。この状況に。こんな状況を招いた俺に。今この瞬間もアシリパさんは泣いているかもしれないんだ。あの時寅次が俺を庇わなければ。俺が死んでいれば。俺の家族が結核にならなかったら。
「誰に怒っているんだ?」
 誰に?そんなの、俺に決まっている。不甲斐ない、俺が不甲斐ないばっかりに、俺のせいで、俺さえ、いなかったら。寅次の代わりに俺が死んでいれば。梅ちゃんは、寅次は、今も。
「いったい何に怒っているんだ!!」
「う…梅ちゃん」
「寅次…」
「アシ…アシリパさんッ」
「オレ…俺ッ、俺ッ、俺は…役立たず…!!」
 そう、俺は役立たず。俺が役立たずじゃなかったら、俺がちゃんとしていたら、梅ちゃんも寅次もアシリパさんも。
「許してやりなさい。頑張ってるじゃないですか。そんなにボロボロになるまで」
 その声が聞こえた時、そうやって不甲斐ない俺を甘やかしてもいいのかという疑問と、アシリパさんだったらもしかしたら「杉元は頑張ってるな!」と褒めてくれるかもしれないなと考えた。きっとご褒美は脳みそだ。

 冷たい水をかぶると一気に目が覚めた。ガタガタ歯を鳴らしてバーニャに駆け込み、熱気に体が温まってくると少し冷静になれた。やはり月島軍曹の言う通り、殴られ過ぎだったのかもしれない。落ち着いた俺を見て、岩息舞治がいった言葉は脳裏に鮮やかに彼女の姿と声を蘇らせた。
「何言ってるんだ!?シライシ。杉元が死んでるわけないだろッ。あいつは『不死身の杉元』だぞ。きっと生きている」
 アシリパさんがそう信じてくれているのなら。俺は絶対に死ねない。俺の魂を抜く傷をつけるのはアシリパさんだけなのだ。

いいなと思ったら応援しよう!