いご草
「自分を制御できなければ、いつか取り返しのつかないことになる」
そう杉元に言いながら、俺の胸に浮かぶのは自分への苦い苦い後悔だけだった。
みんなが「いご草」と揶揄うあの子の髪が好きだった。父親と同じ嫌われ者の俺をただひとり、「基ちゃん」と呼んでくれた子。きっかけが徴兵であれ、二度と戻りたくなどなかった佐渡へ、たった一度だけ戻る理由だった子。俺は、あの子だけは生涯かけて守りたいと思った。島中の人間が嫌いだった。俺のことを、よく知りもしないで「人殺しの息子」と呼び、父親と同じだといった奴らが大嫌いだった。もちろん、そんな目に遭う元凶の父親だって、俺は嫌いだった。母親なんか、物心がついた時にはもう、影も形もいなかった。野良猫に餌をやるように、たまに飯を食わせてくれる近所の婆さんがただ、「男と逃げた」だの、「あんたの父親が殺して床下に埋めたのさ」だの、あることないことばかり言っていたが、どちらにしろそうだろうなと俺も思っていた。俺の父親はそういう噂が納得できるくらい、どうしようもないろくでなしだったからだ。
ことあるごとに俺を殴り、蹴り飛ばし、色の禿げかけた背中の彫り物を見せつける。極道者なんかろくなもんじゃない。でも、極道者の息子だからって、同じだといわれるのは癪だった。俺は俺だ。だから。
「戦争が終わったら、一度だけ、お前のために帰る。その時に駆け落ちしよう」
そう言った時、あの子は頬を赤く染めて頷いた。塩っ辛い海風が癖っ毛のあの子の髪を搔き乱したから、その表情はよく見えなかったけれど、あの子も了承してくれた。そう思った。俺と違ってちゃんとした両親に育てられたあの子も、いご草と言われた髪のせいで島の人間とは溝を感じていた。でも、だからこそ。あの子は俺と駆け落ちの約束をしてくれたのだ。戦争が終わったら。二人で島を出よう。本土で暮らそう。俺はきっと生きて帰ってくるし、僅かでも恩給もあるし、真面目に働くから。楽な生活ではないかもしれないけど、倹しくも楽しい我が家で暮らそう。漁師で島の人間に見つかるのが嫌なら、山に住んでもいい。俺は身を粉にして働く。おめと、おめと俺の子の為なら。俺はいくらでも働くから。そう言ったらあの子は顔を真っ赤にして、俺の胸に顔を埋めた。いご草のような癖っ毛の隙間から真っ赤な耳が見えた。
小樽に戻って、俺は考えた。いつも軍服の隠しに入れていたあの子の髪。まだあの子の匂いがするような気がして、何度も頬ずりした。あの子が玉の輿に乗って東京にいるのでも、クソ親父に殺されたのでも、今はどちらでもよかった。どちらにしろ、あの子は俺の手の届かないところへ行ってしまったのだと、それだけは明確だったから。でも、旅順から帰還のために乗った船で、俺は気が付いてしまった。俺がいたのは北海道の第七師団の野営地だ。何故そこに、新潟の、第二師団の兵士がいたのだろう。各師団の野営地は決められており、戦闘の最中、相見えることはほとんどない。では、何故佐渡出身だという兵士があそこにいたのか。鶴見中尉は、第二師団でなにがしかの失態を犯し、北海道の第七師団に異動になったらしいと誰かが言っていた。あの人の手にかかれば、若者を自分の意のままに操ることなど造作もないことだろう。今がそうであるように、第二師団にいた時も、彼は密かに自分の親衛隊を組織していたはずだ。そうやって息のかかった者をわざと紛れ込ませていたとしたら?あの男の話が嘘だとしたら?…そもそも俺に話した玉の輿の話が嘘だとしたら?俺は鶴見中尉に渡されたあの子の髪を取り出した。皆が「いご草」と揶揄った癖っ毛。こんな癖っ毛だから、あの子の髪と信じた髪。…でも。そんな人間、探せば他にいるだろう。あの子のような、いご草のような癖っ毛の人間は。
そっと屯所を抜け出して暗い運河を眺めた。佐渡の海のようだと思った。夜の海が怖いとあの子は言った。俺は握りしめた髪を放り投げた。この運河と佐渡の海は繋がっている。あの子が、佐渡の海に沈んでいる。それも真実かどうかはわからないけれど、俺はもう二度とあの子に会うことはないのだと、もう俺を「基ちゃん」と呼ぶ人間はいないのだと、そう思うだけで熱いものが頬を伝った。これが俺の流す最後の涙なのだろう。
男たちの熱気の中、琺瑯の額当てをつけた鶴見中尉は口角を上げた。
「どうだ、似合うか?」
その眼は俺を見据えていた。俺はきっとこの悪魔と一緒に歩いていくのだろう。この悪魔に捕まってしまったからには、その最期を見届けるまで、俺は自由になれないのだろう。だから、めんどくさいけれども。俺は最期まで見届けよう。悪魔の踊り狂う血の舞台を。それがあの子と引き換えに与えられた俺の役目であるならば。