私は、推しを消費した。(小説-2万2千字)

 日常から伸びる線というものは、自分の知らない間に、あるべき場所へと繋がっている。
 それは、人生の岐路だとか選択肢だとか、そういう可変性のあるものじゃない。
 自分の意識の及ばないところで、人間や生活みたいなちっぽけな存在を超えた、圧倒的に大きな何かによって、初めから決められているのだ。レールの上を走る電車が、それ自身が転轍機を動かすことができないように。
 だから彼との出会った理由とか、そのきっかけが何だったのかとかを考えるのはちゃちなことで、何度思考を巡らせようとも、「運命だったから」だなんていう、この世で最もちゃちな答えにしかたどり着かないのだ。
 一つ一つを紐解くならば、それは外出自粛とか、世界情勢とか、タイムラインの流行とか、いろいろある。でもそれだって本当の理由じゃないのだ。私が彼と出会うという出来事に私の日常が伸びていくために、世の中は感染症がはやり、Twitterは賑わい、私はゲーム実況にはまったのだ。
 それらの点と点同士でしかなかった事象は、「彼との出会い」というイベントを目の前にして、ようやく初めて線を結んだ。すべてはこのためだったのだ、と。
 落ちるという感情は理屈じゃない。
 気付かないうちに忍び寄る。気付かないうちに降り積もる。いや、本当は認識しているけれど、取るに足りない有象無象のものとして、机のわきに積み上げた書類の山に一緒くた放っていただけだ。気になってはいたけど放置していたそれが、ある日バランスを崩して床に散らばって、ああ、ほらね、やっぱりねと苦笑する。それが落ちるという感覚だ。少なくとも、私にとっては。

 落ちたらもう元に戻せないという点だけが、書類の山とは違っていた。
 特定の人にここまでのめりこむのは、人生で初めてのことだった。
 「オタク」や「推し」という言葉の存在は、以前まで一過性のブームのようなものだったが、今となっては既に立派な文化だ。私はそれらに理解を示しているという態度をとっていたし、実際自分もそういった人種の一員だと自負していた。推しは尊いし、しんどい。
 けど、過去の私のそれは、まったくの真似事に過ぎなかったことを、間もなく私は思い知る。私が自分にレッテル貼りしたオタクというものは、ステレオタイプを投影した“役”を演じていたに過ぎなかった。「おいで、怖くない」とテトをなだめるナウシカ宛ら、自分が優越した立場にあることを自覚しているが故の余裕がさせるパフォーマンスでしかなかったのだ。今となっては、恥じ入るべき行為だとさえ思う。

 本当に没入する対象があるなら、そんなことを思っている暇はなかった。
 彼――マオくんは、いわゆるYouTuberで、その中でもゲーム実況をメインコンテンツに据えていた。たまに歌も歌っていた。
 最初は、ゲームなんてどうでもよかったし、YouTuberなんて興味がなかった。
 だけど、マオくんがプレイするだけで、どんなゲームでも圧倒的に面白く感じた。そつなく器用にバトルをクリアする姿はかっこよかったし、ノベルゲームの中で小出しにされる雑談やツッコミは、感心させられるほど機知に富み、優しい彼の人間性が溢れていた。
 歌ってみたが公開されれば、いつもの緩やかな癒しボイスから一転、凛とした歌声のギャップに身動きが取れなくなる。体中を蔦で捕まえられたみたいに。
 私の一日のスケジュールが、彼を中心に回りだすようになった。動画が更新される時間になれば、YouTubeを開いて待機した。配信が予告されれば、家事も、課題も、あらゆる予定をその時間までに収束させるために全力を尽くす。狭い部屋の壁にかけられた、小さな時計の盤面が夜の八時を示す、その光景が、いつの日か無条件に私を幸せにするようになった。

 マオくんと同じ時間の流れを共有できること。
 私のスマホの画面の向こうで、丁度その瞬間、彼も画面に向かって語りかけていること。
 手を伸ばせば届くんじゃないか…なんて馬鹿みたいな錯覚が、馬鹿みたいにどうしようもなく、私の心を温めたのだ。

 配信では、マオくんのプレイや台詞に対してリアルタイムでチャットを投げる。動画が公開されれば、感想のコメントを打つ。Twitterで何かつぶやけば、即座にリプライをする。
 それらの言葉にマオくんが反応してくれたら、頭の中がパッと弾けるように煌めいて、頬が紅潮してどきどきした。動画に対するコメントにハートをつけてくれたら、その通知画面を目の前に、スマホを置いて拝んだ。リプライに「いいね」が押されたら、自然に頬がほころんだ。
 私の彼への愛が、応援の気持ちが、ちゃんと届いている。見通しの利く想いの通路は、その先を歩むことへの絶対的な安心感をもたらした。明滅するスマホのロック画面が、彼の一挙手一投足を私に教えてくれるのだ。
 〈マオのガチ恋営業、あざとくて胸焼けする〉
 見てはいけないと思いつつ、掲示板を探しては最新のスレッドをチェックする。わかりやすく棘のたった言葉を画面越しに突き立ててくるゴシック体を眺めるのも、もはやルーティーンになっていた。
 マオくんには女の子のファンが多かった。テレビやライブ、舞台を中心に活躍する俳優やアイドルとは違って、YouTuberはファンとの距離が格段に近い。♡や可愛らしくはしゃいだ顔文字を羅列させたコメントが、彼が通りすがった道の後ろに整列していく。私もそれらに外れないように、それでいて自分という存在を主張できるような言葉を選びながら、電子上の記号で愛を叫んでいた。
 そんな浮かれた嬌声に、冷めた嘲笑を投げかける人は一定数存在した。そして、彼らはそれを引き出すマオくんの振舞い自体に対しても、姿の見えない安全地帯から暇つぶしに取れそうな揚げ足を狙っている
 けれど、それが何だというのだろう。マオくんがかっこよくて優しいのは、当然の事実なのだ。それが彼本来の人格だとしても、ビジネスで作られたものだとしても、彼はそれを私たちに見せてくれる。私たちはそれに了解している。双方の了解のもとに授受される供給とその対価を、それを楽しんでいる私たちを、とやかくいわれる筋合いはなかった。
 「今日も頑張ったね」「お疲れ様」「おやすみなさい」
 甘く落ち着いた声で放たれる言葉の数々は、私を容易にときめかせた。言葉と言葉の間に、ふとした瞬間に落ちるささやかな微笑みや息遣いは、イヤホンをしながら皿を洗う私の手をしばしば止めた。椅子から立ち上がる音が、マグカップを机に置く音が、おにぎりのラップを開くやわらかな音が、私に彼と空間を共有しているような錯覚に陥らせた。
 名前を呼ばれたときなんて、宙に浮かんでしまいそうなほど嬉しかった。もう一度、もう一度。それを繰り返すうちに、幸せの耐性がついていくようで、投げ銭もギフトも、だんだん金額が増えていった。
 マオくんに私のことを知ってほしい。
 名前を覚えてほしくて、コメントを拾ってほしくて、投げ銭も、コメントも、リプライも、可能な限りした。それで彼とどうこうなりたかったわけじゃない。付き合えるかも、なんて思ってない。そんなおこがましいこと、思えるはずがない。
 ただ、特別になりたかった。
 彼が今よりもっともっと有名になって、インタビューを受けたりしたとき、ファン想いの彼ならきっと「ずっと僕を応援してくれた人たちのおかげです」と言うだろう。その時に、一瞬でも私のアイコンと名前が過ってくれるなら。私は、そんな存在になりたい。彼と、彼のチャンネルを囲む輪郭の一部になりたい。
 私が彼に落ちたときには、すでに彼の周りにはたくさんのファンがいた。
 ぎらぎらと、一心に彼に思いを向ける女の子たちの中で、私が彼の特別になるのは至難の業だ。はじめからそんなことはわかりきっていた。その枠をはみ出して、突飛なことをすれば、認知してもらえるかもしれない。
 けれど、それはマオくんから疎まれる可能性の方が高かった。私には、その手段は選べなかった。たとえマオくんに認知されなくても、善良なファンの一人でいたかった。マオくんに嫌われるなんてことは、単位を落とすことよりも、バイトをクビになることよりも、友達に無視されることよりも、ずっとつらかった。想像するだけで、じりじりと冷や汗が首筋を焼くようだった。
 けど、ずば抜けた能力は、嬌声の群れの数々を、容易く凌駕するほどの力があるのだ。
 [マオさんがリツイート]
 Twitterのタイムラインには、いつだって愛に満ちたファンアートがひしめき合う。マオくんで繋がったフォロワーが描いた絵は、マオくんの配信の見所とか、名言とかがとても魅力的に描かれていて、温かい気持ちになる。彼の好きな部分をみんなと共有できることに、純粋な喜びがあった。ファンアートを眺めるのも、ルーティーンの一つだった。
 そのなかで、[マオさんがリツイート]は、とびっきりの影響力を持つ。マオくん本人が、直々にリツイートしたファンアート。どれもクオリティが高く、技術的にパッと目を引くものばかりだ。並み居るファンアートの中で、[マオさんがリツイート]は、特別な存在だった。
 最初はただただファンアートを見て、幸せを感じるだけだった。だけど、次第に羨ましくなった。マオくん本人に認知されることもそうだが、それだけではない。
 それは、マオくんへの愛を表現できる術があること。それがある人たちのことが、ひたすらに、いいなあと思った。
 なら、私も絵を描けばいいじゃないか。その提案は真っ当だと思う。けど、私に絵を描く技量があれば初めからそうしている。ないから困っているのだ。
 神絵師と崇められる人たちは、実際にプロであったり、そうでなくても絵を描くこととその鍛錬に相当の時間を費やしたりしている。私が今から努力したとて到底追いつかない。下手でも構わないと思えるほど、[マオさんがリツイート]は、私に自尊心を残さなかった。
 毎日、いや毎分のようにファンアートは上がる。
 〈みみさんの絵、本当に最高です!〉〈本人からのRT、すごいです!おめでとうございます泣〉〈エモい以外の語彙が浮かばない〉
 いいなあ、いいなあ。絵が描けて。
 ファンアートと、それを通してマオくんへの想いを語る。それはマオくん推しなら誰もが幸せになる最高の推し活だった。描き手にとってだけではない。見る人もその色付けされた線の向こうに、愛する人を見る。でも、いつしかそれを手放しに楽しめなくなっている自分がいることにも、徐々に気付き始めていた。
 私だってマオくんが大好きなのに。
 ツイートの、コメントの、画一的な文字列では表現しつくせないほどの愛がある。文字では表しきれなくて、苦肉の策で使った色とりどりの絵文字でも、まだ足りない。もどかしくてたまらない。マオくん、マオくん、マオくん。
 自由なキャンバスに愛を描ける人たちが、心底羨ましい。そして、私もできることなら、作品を通して愛を語ってみたい。ぼんやりと、それでいて確かに膨らんでいく欲求をもてあましながら、推し絵師さんTwitterに貼り付けられたリンクから、pixivで絵を漁る。そうはいっても、やっぱりファンアートはいいものだと、自然に頬が緩む。
 推しを愛でる時間を惜しむように、絵と絵の間を、ページとページの間を何度も行き来する。そのうちに、私は推し絵師さんのブックマーク欄に飛んでいた。押し間違えてしまった。もう一度タグから他の作品を漁りに行こう、そう思ったが、何かが引っかかってそのページの中に留まった。「イラスト・マンガ」という文字の後ろが若干濃い灰色を示していて、そこが今選択中なのだ、とわかる。そして、その隣に、「小説」と言うボタンがある。切り替えができるのだ。そこを何気なく押してみる。すると、絵のサムネイルがずらりとならんでいた画面から、比較的静かな画像と文字が規則正しく整列した画面に切り替わった。
 [#moao #aomo]
 アクティブ表示の青文字で、ハッシュタグが並ぶ。その画面に存在した作品の多くに、「#moao」か「#aomo」と言うタグが付けられていた。

 小説と言う手段を知ったのはその時だった。推しを登場人物に、物語を作る。私がその日発見したのは、特に腐向け小説というものだった。
 BLカップリングには知識があった。かつて好きだった漫画作品でも、男の子のキャラクター同士を恋愛関係にして二次創作した作品を見たことがあった。それもそういった類の一つだと、すぐに理解した。
 「#moao」「#aomo」というのは、マオくんと、彼とよく遊んでいる他のチャンネルの実況者、碧衣(あおい)くんのカップリングのことだった。Twitterでよく見かける「マオアオ尊い」を伏字にしたもののようだ。
 碧衣くんのことは好きだった。マオくんと碧唯くんが一緒に遊ぶと、マオくんの優しい雰囲気と、碧唯くんのちょっとやんちゃなスタイルが対照的で、それでいて絶妙なバランスを醸し出しているのだ。
 〈マオアオてぇてぇ…〉〈マオアオてーてぇ〉〈アオマオ尊いぃ〉こんな風に埋め尽くされるチャット欄に、私も加担している。
 ふと開いてみた腐向け小説は、意外なほど抵抗なく読めた。それまで腐向けと言われるものを積極的に探しに行ったことはなかったが、その小説は嫌悪感もなく読むことができた。そこに小説に描かれるマオくんは、配信の時と同じように、または配信以上にかっこよくて、チャーミングだったのだ。
何より、その作品の中から、マオくんへの愛を感じた。この人たちは、マオくんが好きで、マオくんの小説を書いているんだ。
 私も書いてみたい。一瞬にして、私の頭はそれでいっぱいになった。
 机の引き出しの中には、私が書いた小説がある。暗い穴蔵の中にそれは眠っている。
 中高生の頃は、そうせずにはいられなかった。自分の現実と理想のギャップに苛立って、周囲の人間全員が疎ましくて、憎たらしくて、私はそれを小説で吐き出した。小説を書くことでしか満たされなかった。そして、そんな自分が嫌いだった。いつか、自分の小説で、倦んだ世界をひっくり返したい。私を蔑んだ人間を見返したい。そんなおどろおどろしい感情を原動力に、私は机の前にかじりついた。
 しかしその癖、それは嵐が過ぎればパタリと必要なくなる行為だった。だから、いつも作品として完成する前に、ただの黒鉛の掃き溜めにしかならないまま、その紙の束は役目を終えた。
 こんな風だから、私はそんな後ろ向きな排泄を誰に言うことも出来なかった。だから、乱雑に引き出しの底に眠らせるだけ。

 それが、生まれて初めて生きるかもしれなかった。自分の忌むべき部分に、光を当てることができるかもしれなかった。
 想像の世界を、言葉で表現する。愛の世界に形を与える。これなら、私でもできる。マオくんへの尽きることない愛を昇華させることができるのだ。
その確信が私を照らし出した瞬間、マオくんが生き生きと輝く舞台の想像が、驚くべきスピードで膨らんでいった。柔らかく微笑むマオくん。慈愛に満ちた眼差しで手を伸べるマオくん。飄々とした身のこなしで、次々と敵をなぎ倒していくマオくん。
 私の頭の中で、これ以上ないほど素敵なマオくんが、命をもって動き出した。マオくん一人では、なかなかストーリーとして成立させるのは難しいから、碧衣君にも登場してもらおう。どんどんと想像の世界が具体性を帯びていくほど、心臓がどきどきと高鳴って、体がそわそわと落ち着きがなくなって、居ても立ってもいられなくなった。
 パソコンを立ち上げて、キーボードをたたき始めたら、もう止まらなかった。愛しのマオくんが、文章の中で動き始めた。いろんな表情のマオくんが見たくて、いろんな話をするマオくんが見たくて、すごい勢いで文字を打ち続けた。自分でも信じられないほどの集中力で、あっという間に一話書き終えてしまった。
 ピリオドと言いう名の句点を打ち終えたとき、私はまだドキドキしていた。
 忘れていた我を取り戻して、自分が打ち込んだ文をなぞった。自分が書いた小説の中のマオくんは、本当に愛おしくて、可愛くてたまらなかった。私はその瞬間、自分で書いたその小説が大好きになった。何度でも何度でも、読み直した。
 生まれて初めて、自分の創作を好きになれた。
 誰かに読んでほしい。マオくんが好きな誰かに読んでほしい。それで、かっこよくて、かわいくて、素敵なマオくんをみんなと共有したい。
 それは率直な衝動だった。何一つ臆することなんてない。私も、マオくんへの愛情をみんなと共有するんだ。すぐにpixivを開く。生まれて初めて見る作品投稿ページを、恐る恐る操作して、今しがた書き終えたものを本文に貼り付ける。「投稿」のボタンを押すときは、さすがに一瞬しり込みしたが、それ以上に気が急いた。
 パッとポップアップが現れ、私の小説が公開されたことを告げた。
 私はそれを見て、急に落ち着かなくなった。マオくんのことで頭がいっぱいになっていた。勢いですべてを書き上げ、勢いでアップしてしまった。冷静になって読み返してみたら、ひどい出来だったらどうしよう。
 うろうろとその場を歩き回る代わりに、上へ、下へと画面をスクロールする。マウスホイールを指の腹でコロコロと転がした。窺うように視線をきょろきょろと彷徨わせる。
 [#moao]
 タグはそのまま使ってしまったが、良かっただろうか。受けか攻めか…と聞かれても、具体的な行為があるわけではないので微妙だったが、碧衣くんのほうがマオくんに翻弄されているような形になっているし、完全に間違いではないと思う。
 そのようなことをぐるぐると考えるうちに、自分があまりそういったマナーに詳しくないことに思い当たった。検索エンジンからそれらしき情報を漁る。じっとりと嫌な汗がマウスと手のひらに滲んでいく。
 一通り検索終えてから、私はキャプションにいくつか注意事項を加えることにした。地雷には気をつける、これが鉄則のようだ。
 それでもなお落ち着かずに、私はページ上で徘徊を続けた。そこで、私は気が付いた。
 [nmmn注意]
 なんだろう。何かの伏字なのだろうか。検索バーに同じ文言を入力する。0.42秒で検索結果が表示される。不穏な気配が白を基調としたブラウザの中に漂う。
危険性、気をつけること、マナー。
その瞬間に、もしかしたら私はやってはいけないことをしてしまったのではないかと言う予感が背中を這いあがってきた。逃れるように瞼を薄めに開きながら、表示されたページをざっと流し見していく。さらっていった情報としては、とにかく公にしてはいけないものであるということがわかった。肝が冷えた。一歩間違えていたら、嬉々として小説のリンクをTwitterで投稿してしまっていたかもしれない。
 私は少し落胆した。絵を描く人たちのように、この溢れんばかりの情熱を共有したいと思って書いたのに、どうやらそれは許されないことらしかった。しかし、推しに迷惑をかけないためには致し方ない。他の書き手の人たちに倣って、キャプションに新たに注意書きを加えた。
 一通りの儀式にそれなりに満足した後は、いよいよ自分の作品の巧拙が気になってくる。閲覧数は……アップロードしてからまだ一時間と経っていないこともあり、十にも届いていなかった。多分そのうちの数回は私だ。
 笑われたらどうしよう、読むに堪えない出来だったら。いや、それどころか、もしかして誰かを怒らせてしまったりしたら? pixivを離れて、課題をこなそうとしても、家事を片付けようとしても、気になって仕方がなかった。常に頭の中身がスマホの中の世界へと糸で引っ張られているように感じた。
 マオくんへの愛を形にしたかっただけだ。それなのに、想像以上に、ファンにどう見られているのかを気にしている。そんな自分に嫌悪さえ覚えた。
ブブっとスマホが震えた。洗濯物を畳むために折った膝の先で、スマホの画面に明かりがともる。それにリンクするように、自分の身体がびくりと震える。苦言とかだったらどうしよう。そう恐る恐る手に取った端末の画面は、想像と違う色を示した。

 [マオさんがツイートしました:
こんばんは!今日はみんなを驚かせようと思って、一カ月間準備してきたサプライズを披露したいとおもいます。……]

 …なに、なに?ぐわっと吹き上げるような興奮を感じる。ごわごわのタオルの感触も、胃の中の不穏も、全てをさらった歓喜のままロックを解除してツイートの全文を表示する。

[……実は、碧衣と一緒に歌ってみました!カバー初コラボです。このあと21:00からプレミア公開するから、お手すきのみんなは来てくれ~!]

 息を呑んだ。声にならないような悲鳴が、喉につかえるように嗚咽となって絞り出される。マオくんの歌、マオくんの歌、マオくんの歌。それも、碧衣くんとのコラボ歌。
 貼られたリンクからYouTubeに飛ぶ。既に待機所ができている。九時まではあと五分かそこらしかない。洗濯物を投げ捨てて、ノートパソコンのふたを再びあける。推しの動画は一番大きい画面で見たい。イヤホンをつけて、一番の音質で聞きたい。
 〈すでに死にそう〉〈碧衣くんとのコラボ百年待ってた〉〈こわいこわいこわい幸せすぎてこわいたすけて〉チャット欄が熱と恍惚をもった阿鼻叫喚が埋め尽くす。私もそれに加わる。〈聞く前から最高でしかない〉送信されたメッセージが瞬く間に流されていく。
 かくして運命の時刻になった。チャット欄が興奮に押しつぶされた様に始まりの瞬間を待っている。ぷつっと微かなノイズがイヤホンから聞こえた。もうすぐだ、今だ、もう始まる。そんな嵐の前の静けさが、ノイズの後の一瞬に訪れる。
 そして、ギュイーンと力強いギターソロ。長い人気を博する有名なボカロソングだ。きた、きた、きた!
 吸気、そして、マオくんの歌い出し。いつもの優しくて甘い声が、脳を痺れさせる。脳を浸す髄液が蜂蜜になってしまいそう。イヤホンが直接聴神経に繋がってるみたいだ。左耳、左耳だ。左耳からマオくんが歌っている。背中から首筋へゾクゾクと、恐怖に似ているような快感が這い上がる。おもわず自分の両肩を抱きしめる。
 間もなく碧衣くんのパートと切り替わる。マオくんとは違う、少しハスキーな声が対照的に安らぐ。
 歌は、サビ前に入る。最高潮を予感させる、二人の掛け合いが鮮やかに繰り広げられる。サビに入る直前、最後のフレーズで、二人の声はとうとう重なる。美しいユニゾンだ。
 サビに入った。うあ、うあ。やばい。サビに入った途端、マオくんの緩いボイスがキュッと引き締まる。色気を感じる声にまさにぴったり重なるように、MVのマオくんの表情は、薄目でこちらを見下ろすように微笑む。ヒっと喉から短く悲鳴が漏れる。初めて見る顔だ。
 歌が始まってから、全く余裕がなかった。チャット欄に文字を入力するような暇はなかった。じっと身を固くして、彼の声に耳を澄ます。ユニゾンでもハモリでも、私の声はマオくんの声を的確に拾う。カクテルパーティー効果って言うんだっけと、どうでもいいことが一瞬頭にひらめいてはチャット欄のスピードのごとくすぐさま流れ去った。
 頭がパンクしそうなほどの幸福に、脳がショートしてしまいそうだった。なんども動画を止めたくなった。止めて息継ぎがしたかった。息ができない程夢中だった。でも、マオくんが準備してくれた、マオくんが用意したタイミングを、ただこの瞬間を享受したかった。
 フェードアウト。永遠に続くとも思えるような余韻を残して、二人の歌ってみた動画は終了した。しばし呆然としながら、永遠に拍手の絵文字が流れるチャット欄を眺めながら、ようやく私もそこに同じ絵文字を流すことができた。
 最高以外の言葉が出てこない。推しの前で、言葉は無力だ。推しの尊さを形容できる言葉なんて存在しない。それは人間の認知できる言語ではないからだ。
 先ほどまで言葉の限りを尽くして小説を書いていたことが嘘みたいだった。そんな考えがふっと過ったところで、つい先ほどまで自分の胃の中で沈んでいた不安が跡形もなくなくなっていることに気が付いた。推しの偉大さを改めて再認識させられる。
 歌ってみた初コラボ。二人の歌声はもちろんのこと、イラストも演出も最高だった。ようやく取り戻した息で、弾んだ胸の高鳴りを落ち着けるように深呼吸をする。ツイートを連投して思いの丈を白い空間にぶつける。共鳴した同志たちから次々にいいねが付く。
 普段のアイコンや立ち絵でさえも、いろいろ想像の余地があって、楽しい。でも、実際にイラストで見せてくれる表情は、自分のぼんやりとした想像なんか比にならない程鮮明で、人格を持っているようにさえ思えた。
 マオくんは、顔出しをしていない。そう言われるけど、あの立ち絵が、みんなのファンアートが、イラストが、マオくんの顔だ。私はマオくんのキャラデザインも声も丸ごと愛してる。本物かどうかなんてナンセンスなんだから。
 タイムラインを延々と指ではじいて流す。そして、もう一度、またもう一度、動画を流す。MVの隅々まで目を凝らす。声の全てを、息遣いを耳に記憶させる。
 最高だ。最高の気分だ。これ以上の幸福はない。マオくん、やっぱり私の、最愛の推し。
 夢のような幸福から覚めたくなくて、暗闇の中しぶとく液晶画面にすがりつく。けれど、抗いがたい睡魔がすぐに私を新たな夢へと手招いていったのだった。

 カーテンの隙間から差し込む明かりで目を覚ましたとき、タブレット端末に刺して耳に挿していたイヤホンのコードが、寝返りのせいで首に巻き付いていた。ああ、危ないなと思いつつも、それでもイヤホンを外さなかった自分の執着が、マオくんへの愛を証明できたようでどことなく嬉しかった。
 ゆっくりと体を起こし、コードを首からほどき、スマホを見る。
 目をみはる。pixivからの通知が数件届いていた。
 一夜でブクマ数が三十になっていた。これがすごいことなのか、そうでもないことなのか図りかねた。しかし、三十人もの人が、私の書いたものを良いと思ってくれた。これは事実だと思っていいんだろうか。
 静かに且つ確かに脈打つ心臓の音に耳を傾けながら、通知を追った。するとどうだろう。〈初めまして!二人のコラボ動画の興奮冷めやらぬまま小説を漁りに来たら、めりやすさんの小説が丁度目に入りました。二人のもどかしい関係にキュンキュンです!マオくんの可愛さとかっこよさのギャップがすごくて私までどぎまぎしちゃいました…〉こんなコメントがついていたのだ。
 めりやすさん。私のハンドルネームだ。見間違いじゃない。これは私に宛てられた賛辞と受け止めて間違いないだろう。ぱちぱちと目を瞬かせる。瞼を閉じる暗転から、シーンが切り替わって、それまでの全部が噓になるんじゃないかと思った。それを確かめるように、念入りに閉じて、閉じて、開いた。何度目を開いてもその光景は消えなかった。
 白い画面に閉じ込められた短い文の中から、遅れて何かがあふれ出す。きらきらした、目を離せないような輝きだ。
 褒められた。私の小説を、言葉にして好きだと言ってくれた。思わずスクショを取る。信じられないような気持ちで、何度もコメントを読み返す。私までどぎまぎしちゃいました…私までどぎまぎしちゃいました…その一言がひたすら嬉しくて、抑えようとしても口角がにゅいにゅいと上がる。嬉しい、嬉しい。
 これまでの人生でもらった誉め言葉のどれと比べても、それは格別だった。テストでいい点を取って褒められた時も、大学に受かった時も、多分こんなに嬉しくはなかった。私の人間性を指して「優しい」「いい人」と言われることなんかよりも、そのコメントは私の人格の中のずっとずっと深いところから救い上げて、まるごと肯定してくれるようだった。
 マオくんに落ちたときの衝撃だったら、いい勝負かも知れない。でも、マオくんを推している時に私の胸を満たすのは、クリーム色をした暖かな光だ。このコメントは、少し色が違う。恥ずかしさとか、照れにも似た桃色をして、私の血の温度を一度上げるような熱だった。
 私はその時にはもう既に、また小説を書くことを決めていた。
 マオくんのことを思い浮かべながら、マオくんを形容するにふさわしい言葉を探しながら、私はマオくんへのラブレターを綴るように小説を書いた。
今度は腐向けにはしなかった。初めに書いた小説もそこまでBL感はなかったが、便宜上タグ付けできる程度には二人のからみが中心になっていた。私としては、碧衣くんの存在はさほど重要ではなかったから、そこにこだわる必要性を感じていなかった。だから今回は、マオくんの独断場だ。先日マオくんがプレイしていたRPGの世界を舞台にして、彼が華麗に立ち回る物語。
 ただ愛おしむように言葉の糸を紡ぐあいだ、私は何も必要としなかった。食事さえ、水を飲むことさえ億劫だった。パソコンから離れている暇が耐えられなくて、絶えずキーボードをたたきたかった。からからに干からびるような胃が不快感を強くして、仕方なくふりかけだけをかけたお米を口に詰め込む。食べることはそれなりに好きだったけど、紡いだ糸で物語を編む行為はそれを余裕綽々で上回った。敬虔な儀式を厳かに進めるように、私の身体が余剰を拒んだ。
 時間があっという間に過ぎる。起きたばかりかと思っていたら、あっという間に窓の外が暗くなる。窓ガラスが冷たい濃紺を湛えたとき、私はキーボードを叩き終えた。
 書き上げた。自分でも満足の出来だ。達成感と共に、すぐに投稿ページを開く。キャプションをつけて小説を送り出すと、ようやく一息、新鮮な空気が肺を膨らませる。空腹の実感が突然湧いて、冷蔵庫を漁る。萎れた花が、久方ぶりの恵みを手にして再び生を渇望する様を連想させるほど、私の停止していた生命維持機能が再び回りだす。
 手持ち無沙汰に開いたスマホ画面をみて、私は驚いた。マオくんから通知が来ていたのに、全く気付いていなかった。[22時から配信します]という通知バナーの上に、22:24と白抜き文字の時刻が示される。過ぎている。いそいでスマートフォンでYouTubeを開く。白い輪が一瞬だけぐるりと回る。「……の?へえ~みんな物知りだね」すぐさま、マオくんの声が流れ出す。無邪気な笑い声がキッチンに微かに反響した。食材漁りもそこそこに、結局タッパーに入れてあったブロッコリーだけをもって寝室兼リビングに戻る。
 シャワーを浴びるタイミングを逃してしまった。浴びずに寝てしまってもいいかもしれないと思ったが、明日はバイトだ。人前に出るときは極力身ぎれいにしておいた方がいい。それでもスマホから離れがたく、結局スマホをジップロックで密閉して、音を大きくして風呂場に持っていった。たまによくやる。たまになのか、よくなのかわからないが、どっちつかずの時に使う表現だ。
 なんとかして入浴を済ませ、肩にかけたタオルで無造作に髪の毛を拭く。毛先に雫の塊が集まって、徐々に大きくなって、机の上にぽたりと落ちる。マオくんが敵の突然の登場に悲鳴をあげる。推しの悲鳴は体にいいな。自分の外面を繕うのはどんどんおろそかになっていくけど、そんなことよりもマオくんを愛でることに時間を使う方が大事なのだ。
 日付が変わって、零時を少し過ぎた頃にマオくんの配信は終わった。最近出たばかりの話題のRPGだ。しばらくはこの続きを配信でやっていくのが中心になるのだろう。流れるような手つきで、シークバーのスライダーを先頭に戻す。聞き逃した部分を聞かずには眠れない。そうでなくても、推しの声がなければ眠れない。見逃した三十分を見届けたら、あとは睡眠導入剤で構わない。部屋を暗くして、体を丸めて、布団の中でちかちかとカラフルに点滅する液晶を見つめる。壁際を向くのは、マオくん以外を視界に入れないためだ。私の背中一つで、自分の内側とマオくんを世界から守るためだ。バイトに行きたくない。できればこうしてずっとマオくんと話していたい。私が拾われるか分からないコメントを投げ、マオくんが話したいことだけを話す、お互いにとって一方的なだけの話をずっと続けるのだ。でもお金は必要だ。お金がなければマオくんに名前を呼んでもらえない。本名じゃないけど、ネット上の自分の名前は私のもう一つの人格だった。だから仕方なく働くのだ。マオくんが付けていると教えてくれた香水を吹きかけて、空気が揺れるたびにマオくんの存在を感じながら、エプロンに袖を通す。いらっしゃいませーと口にする声はきっと私のものじゃない。

 慌ただしく夕方までを過ごして、自宅に戻る。ふぅと息をついて、スマホを見る。そういえば昨日アップした小説はどうなっただろうと、pixivを開く。最初の作品についた反応を目にしたときのことを思い出して、その高揚がむずむずと湧き上がる。
 しかし、自分が想像していたほどブクマはついていなかった。それどころか、明らかに反応が薄いように感じる。ほとんど一日くらい経過しているが、ブクマ数は十件ちょっと。最初の小説はすでに五十までいっているのに、明らかな差だ。自分では一作目より満足のいく出来だったし、読み返してみても、文章にも違和感がない。行ったり来たりと自分の作品ページを開いたり閉じたりを繰り返す。
 そこで気が付いた。腐向け小説ではなかったから、[#マオくん]のタグをつけて登校したが、ページの上部に表示される小説の総作品数が、[#aomo]や[#moao]よりも圧倒的にすくないのだ。他の人たちの作品をみても、私が投稿したものとブクマ数はどっこいどっこいの少なさだ。それに比べて、マオくんと碧衣くんの腐向け小説なら、どの作品もだいたい三十程度はブクマが付いている。市場規模、と言う言葉が頭に浮かんだ。
 読者の数が違う。腐向け小説じゃないと、読まれない。
 その事実に気が付いたときに、私は何を考えたんだろう。よく覚えていない。ただ、宵の心もとない明るさを徐々に失っていく部屋の中で、対照的にパソコンの画面がだんだんと目に焼き付きついていくような感覚が、しっかりと網膜の奥へと浸透していった。
 〈アオマオは公式〉
 先日の歌ってみたコラボで、マオくんと碧衣くんのカップリングを推すファンが一気に増えたようだ。同じような文言がTwitter上で散見されるようになり、鍵垢作りましたというつぶやきもちらほらとみられるようになった。pixivでも、以前見たときよりも[#aomo][#moao]作品が増えた。
 ずるい。ずるいって何だろう。でも、確かに心の中に差した感情の名前は「ずるい」だった。同じようにマオくんの小説を書いても、腐向けじゃないだけで読んでもらえないなんて、感想をもらえないなんて、不公平だ。ずるい。でも、確かにそうだ。マオアオは尊いし、マオアオ小説は面白い。面白い、そう、面白いんだ。面白い。マオアオが至上で公式。
 [#moao]タグをつけてマオアオ小説を書いた。投稿した。伸びた。また感想をもらった。何だ、簡単じゃないか。やっぱり私の小説は面白いんじゃないか。
 一本、もう一本。妄想は際限なく湧くし、創作意欲は留まるところを知らなかった。創作意欲だけで生きられることを知った。書いている間は、本当に楽しかった。全身の細胞で生み出されるエネルギーが、両腕を伝って全て文字になる。創作意欲をエネルギー源に創作する。その喜びが創作意欲を生む。自己完結するエネルギー循環システムが体内で確立する。バイトがない日は最低限しか食べなくなった。
 生まれて初めて便秘になった。周りの友達が便秘に苦しんでいるのを横目に、自分にはとんと縁のない話だと思っていたが、思い知った。何かを取り込まなければ、排出されない。ところてん方式で体は作られているのだ。枯渇した栄養をびた一文逃すまいと、体が閉じていくのを肌で感じた。さすがに、少しは意識的に食べるようにした。
 創作意欲の方は、排出される力の方が強い。全てを文字にして吐き出す作業は快楽そのものだった。創作意欲の供給は尽きることはない。マオくんが配信をし、言葉を発し、いや、生きているだけで、私はそれを餌に書くことができる。過去の配信アーカイブを、マオくんのカバー曲を、絶えず耳に注ぎ込む。
〈 めりやすさんのお話、全部好きです!〉
 どんな金言にも敵わない言葉をもらった。それだけで無敵だった。強張って引きつった胃が、感想のコメントで一時弛緩する。たぶん、この状態は普通じゃないってことは、いい加減自覚していた。普通じゃない。でも、自分の力で止めることができない。創作物とその評価が、私に強い快楽をもたらす。もう一度、もう一度。それを繰り返すうちに、快楽の耐性がついていくようで、より強い快楽をもとめて私は小説を書く。
 [トレンド:nmmn]
 マオアオ小説がpixivから減った。たくさんの作品が非公開か限定公開になる。nmmnという言葉がトレンド入りしたのだ。アイドル界隈のnmmn絵が拡散されて炎上したらしい。
 〈現在の状況を鑑み、しばらく作品を非公開にします。この界隈の状況に不安を感じます〉
 〈お知らせ〉と題した投稿がタグ内に増える。不穏な空気が漂う。推しカプを崇める愛に満ちた花園に、途端に警戒線が張られる。物言わぬ液晶画面がぎょろぎょろと疑心暗鬼に周囲を見渡しているようだった。私もそれに倣う。昨日公開したばかりの作品を、限定公開に下げる。悔しかった。もっとたくさんの人に読んでほしかった。もっとたくさんの感想が欲しかった。本当にそうしなければいけないのだろうか。あからさまな行為があるわけでもない、キスすらさせてない。プラトニックよりももっと微かな関係性しか描いていないのに、私もnmmnとレッテルを貼られて、同列に扱われなくてはいけないのだろうか。本心では不満たらたらだった。
 この際、タグ内の作品をもっとさかのぼってみようと思った。すると、しばしば同じように〈お知らせ〉と題された作品がかたまってアップされているのを発見した。nmmnについてもっと詳しく調べることにした。過去に炎上した事件、有名な事件。ネット上に存在する記事の多くが、懸念と批判を前面に押し出していた。そのたびにnmmn界隈は沈静化し、固唾を飲んで状況の行く末を見守った。
 〈生きてる人間で妄想するとか、気持ち悪いんだけど。病気なんじゃないの〉
 ふと目に留まった呟きに、スクロールする手が止まる。私は、私たちは、異常なんだろうか。糾弾されてしかるべきなんだろうか。嫌悪される存在なんだろうか。
 マオくんで固められたタイムラインでも、他の界隈の情報が流れてくる。今人気の漫画作品の腐向けカップリング。漫画も、小説も、声高に披露される。ありもしない空想の設定で、妄想が垂れ流される。誰かの作品に乗っかって創作するとか、気持ち悪いんだけど。病気なんじゃないの。
 自分の好きになったもの、好きなこと。それが真っ当だとされているものなら、マジョリティなら、平気で誰かの「好き」を否定できる。安全地帯から暇つぶしに取れそうな揚げ足を狙っている。皆嫌っているからと何となく批判する。私たちができないことを、得られないものを平気で享受する。ずるい。ずるい以外に、何も言えない。同じ二次創作者なのに、nmmnでなければ受け入れられ、nmmnであればそしられる。やっていることは同じなのに、私たちは隠れなければならない。
 〈本人の目に留まったら不快にさせるかもしれないから〉〈nmmnに耐性のない一般のファンが不快な思いをするから〉
 私たちが隠れる理由はこうだ。だからTwitterに乗せたりしない。pixivで隠れてやっている。耐性がないなら、不快なら、わざわざここまで見に来ないだろう。一応は隠れている。
 小説は書き続けた。しばらくは作品をアップするのは躊躇ったが、次第にまた作品が増え始め、頃合いを見計らって私も投稿を再開した。すぐにブクマが付く。おかえりという声が聞こえるようだ。書くこと、読まれることに、私はひどく飢えていた。
 今度はもっと、面白いと思ってもらえるように。過去のマオくんと碧衣くんのコラボ配信を一から漁りなおした。あの時のあのゲームの時は、こう言っていた。だけど、最近の配信では心境が変わったようだ。タイムスタンプと台詞をメモする。これは参考になる、いいネタになる。[22:00から配信するよ!]ピコンという音とともに、画面上部からちらりとバナーが下りる。マオくんからのメッセージが知らされる。明日アーカイブを追えばいい。いまはこっちを書きたい。
 書き上げるまでは楽しい。それは創作の喜びだ。でも、投稿してからは不安の渦に呑み込まれる。前に描いた作品よりも評価が落ちたら。批判されたら。胃底がせりあがって、食道がキュッと狭くなる。食欲がないというより、食べられる量が減った気がする。
 寝付くまで、何度もブクマの数を確認した。気にしないように、見ないようにと思うほどに、左手が自然とスマホに伸びる。そのたびに強い光に当てられて、眼が冴える。眠れなくなる。眠らないとという焦りで、また眠れなくなる。
 そういう時は、指が勝手にマオくんのとある配信アーカイブを探す。登録者が十万人に到達したときに、ファンに乗せられて調子づいたマオくんが、勢い余って八時間ずっと雑談し続けたときの配信だ。ゆるゆると一定の穏やかなテンションで、マオくんの声が語り掛ける。
 どんなに不安に呑み込まれそうな夜も、マオくんの声を聞けば眠れた。世界の音をイヤホンで遮断する。闇の中にありもしない顔を見つけないように、体を丸めて頭まで布団をかぶる。

 「……うん、うん…ふふふ。いや、お金じゃないよ。ファンアートも、もちろんありがたいけど、動画も配信も、見てくれるだけで嬉しいんだよ。見てくれることが一番の応援」

 寝入りばなに、マオくんの台詞がすっと耳にしみこむ。チャンネルの規模が大きくなってきて、ファンの空気がどこかぎすぎすしてきた時期。マオくんが、古参ファンも新規のファンも全てを受け止めるために笑ってくれた。本当の顔なんてしらないけど、私は彼の口角がふにゃりと上がるのを何度も見た。夢の中で、白昼夢の中で。
 朝目が覚める。バイトに行く途中で、pixivを確認する。反応の速度がいつもと遜色ないことを確認できると、安心できた。
 バイトに向かう道中に、休憩中に、昨晩の配信アーカイブを確認した。以前からやっているRPGの続きだ。レベルもかなり上がっているし、いくつも謎が浮かび上がってきて、ストーリーも盛り上がりを見せる。そんな中でも、マオくんは適度にコメントを拾いながら、ファンとの会話を楽しむ。
 「…碧衣とオフで?遊んだことあるよ」
 事もなげに言い放たれた言葉に、私は硬直した。パンをかじる手が止まる。チャット欄も動揺し、瞬時に流れの速い濁流のようになった。
 驚いた以上に、私は後悔の念に駆られた。昨日アップした小説に、二人はオフで遊ばないと書いてしまった。解釈違いだったというわけだ。誠心誠意書いた小説が、不意打ちでNGを食らったようで、途端に気持ちがしぼんだ。
 もそもそと咀嚼を再開して、チャット欄を流し見ながら続きを見る。その途中で、私はまた目を見開くことになった。〈マオ×アオ絵師・字書き頼んだ〉一瞬で流れ去った短いメッセージだったが、私が肝を冷やすのには十分だった。「マオアオ」はコラボ配信時に付けるタイトルに、彼らが自分から使った呼称だ。だけど、掛け算はカップリング表記の仕方だ。悪気はきっとなったのだろう。だがなかったからこそ問題だった。マオくんが目にしていなければいいが、それで済む問題ではない。nmmnに対する意識が低いファンがいる。かつての私のように。
 勘弁してほしい。テリトリーを荒らすようなことをしないで欲しい。私の居場所が危険にさらされるのは御免だった。また、せっかく書いた作品を下げないといけなくなってしまう。限定公開では、閲覧数が格段に減ってしまう。評価が得られなくなってしまう。
 ブクマへの飢えが、また指を動かす。今度はもっと、納得いくものを。クオリティの高いものを。マオアオ配信はもちろんのこと、Twitter上での彼らのやり取りも隈なく見た。ファンの間で交わされるおすすめのアオマオシーンを情報収集するために、鍵垢も作った。マオくんが単独でゲームをしている動画や配信は、どんどん後回しになる。未履修の動画がたまっていく。
 今度こそ、誰の小説よりも、ブクマ数が欲しい。ざらついてぎらついたむき出しの欲望とは裏腹に、眠れない夜を膝を抱えてやり過ごす。マオくんの声を子守唄に目を閉じる。
 私の小説の直後に投稿された、見たことない名前の誰かの小説が、私の小説よりも評価がついていた。一晩で六十って、正気じゃないと思った。だけど読んでみたら、文字数だって三千字に満たなくて、何度でも誰かが書いてきたような、手垢のついたストーリーだった。全年齢で投稿するのに躊躇がなかったのかと尋ねたくなるるほど、きわどい内容だった。
 一瞬だけ開いてすぐに閉じてしまったアオマオ小説の成人向けページは、全年齢よりも平均ブクマ数がずっと高かった。認めたくなかったが、私が苦労してやっと手に入れるほどのブクマ数を当たり前の方に得ている小説がたくさんあった。
 ショックだった。それどころか、虫唾が走った。
 何で私の方が「下」なんだ。つたない文章で、ありふれた展開で。成人向けの内容というだけで、読み手はありがたがって読む。趣向を凝らした台詞回しも、どんでん返しのストーリーも、何の意味もない。ここで需要があるのは、面白い小説じゃなくて、安直で欲求にストレートな話。私が寝食を犠牲にしても、体重の五キロを犠牲にしても何の意味もない。
 そんなにブクマが欲しいなら、成人向けの小説を書けばいいじゃないか。違う、違うよ。私は私のマオくんを、彼の好きなところを小説で表現したいだけ。エロ小説なんか書けないし、書きたくもない。
 生きてる人間で性的な妄想するとか、気持ち悪いんだけど。病気なんじゃないの? 異常なんじゃないの? あの変態どもと一緒にしないでよ。パソコンの液晶画面を睨みつけて、握りしめた拳の中で爪を皮膚に食い込ませる。痛い。
 結局私も同じだ。自分の好きになったもの、好きなこと。それが比較的真っ当だとされているものだから、平気で彼女らの「好き」を否定できる。私は既にご高説垂れることができるような人間ではないというのに。彼への愛を表現したいだなんて、早々に忘れたくせに。
 人の「好き」を否定する私は、最低の人間だ。ラブレターだなんて言って、小説を書く資格はない。
 ルーティーンを果たすため、のろのろとTwitterに戻る。失意と自己嫌悪に指という指の力を奪われながら画面をスクロールすると、タイムラインがざわついていた。
 〈ちょっと、あまりにもひどいんじゃいの〉〈誰か教えてあげてよ〉表のタイムラインでは、皆が何かに苦言を呈しているということしかわからなかった。すぐにアイコンを切り替えて鍵垢にもぐりこむと、全容がわかった。
 〈いくら腐向けじゃないからって、本人にnmmn小説投げつけるとか…〉
 血の気が引いた。マオくんの最新のツイートを確認する。リプツリーをたどると、問題のリプライがすぐに目についた。やたらと引用リツイートされているようだったが、そのすべてが鍵垢からの物だった。無邪気に貼られたリンクは、[#moao]タグ、その他マオくんに関わるタグの全てが乱用された小説だ。ツイート主本人の投稿と見た。ご丁寧に、Twitterのファンアートタグまでつけられている。
〈マオくんの小説を書いてみました!〉
 pixivから[#moao] [#aomo]タグを見ると、一気に作品数が半分になっていた。リロードしたら、また十ほど作品数が減った。書き手たちが血相を変えて作品を非公開にしていく様子が、手に取るようにわかった。震える手で、私も全ての作品を非公開にする。二十作品に及ぶ、心血注いだ小説たちが、どんどん表舞台から姿を消す。
 何も隠れてなどいなかった。私が表舞台だと思っている時点で、隠れ家でも、秘密の花園でもなかったのだ。きっと二度と公開することはないだろう。
 〈本人に投げるのはありえないけど、そもそもnmmnを誰でもアクセスできる状態でやるのが間違ってるでしょ。マオくんを知らない人が見たらどうするの、そこまでして生身のマオくんのセクシュアリティを捻じ曲げたいの〉
 声高な意見が、目を引いた。反論のしようがなかった。耳が痛くなるほど赤くなった。私は、こんな風に糾弾されるまで、本当は何もわかっていなかった。
許して、マオくん。許して。
習慣のように、いつもの彼のアーカイブを耳に流し込む。早く眠りにつきたい。

「動画も配信も、見てくれるだけで嬉しいんだよ。見てくれることが一番の応援」

 暗唱できるほど聞いた台詞が、耳を伝って、冷ややかな胸の底まで流れ込む。見てない。私、最近マオくんの配信追えてない。
 あんなに好きだったのに。マオくんのことをずっと応援したくて、マオくんの素敵なところをみんなと共有したくて、二次創作を始めたはずだった。最初はただそれだけだった。
 でも私は弱かった。あれよあれよと自己顕示欲に飲まれた。マオくんの言葉を、マオくんの考え方を、切り売りした。私を見てほしくて、そのためにマオくんのことを利用したんだ。
 ブチッ。イヤホンをスマホから引き抜いた。夜の静寂に包まれた。
 マオくんの声が、聴けなくなった。

 私は、ファン失格だ。

 ちゃんと目が覚めたときは、既に夕方だった。明け方、昼と、薄く意識が戻った気がするが、特に予定もすることもなくて、布団にもぐりこんだ。こんなにちゃんと寝たのは久しぶりかもしれない。寝すぎた頭の中がずんと重く、両手でぐりぐりともみあげを押さえた。
 癖でスマホを手に取る。だけど、マオくんのツイートも、動画も、見る気になれなかった。もちろん小説も書かなかった。一文字も書かない日は久しぶりだった。
 お腹が減った。何もなかったから、最低限の身だしなみをしてコンビニに出かけた。落ちかけた日が、青空にほんの少しくすんだ白色を与えていた。お腹が減った状態のコンビニは全てがおいしそうで、食べきれない程食べ物を買ってしまった。
 家に帰っても、することがなかった。仕方がないから、ごろりとまた寝そべって、天井を見上げた。暇という感覚が久しぶりすぎて、暇という感覚が自分にもあったことに驚いた。
 いつも動画が上がる八時になって、YouTubeを開いてみた。やっぱり見る気がしなくて、すぐに閉じた。腕を半径に、スマホが弧を描いてフローリングにばたりと叩きつけられる。少しだけ右手の骨が痛かった。おかしな感覚だった。昨日まであんなに忙しくしていたのに。昼夜を問わず文字を打ち込んでいたのに。マオくんのツイート次第で、スケジュールがせわしなく動いていったのに。
 マオくんを好きになる前の私は、どうやってこんな退屈な日々を過ごしていたんだろう。考えれば考えるほど、マオくんと出会わなかった日々のことが考えられなかった。気が付いたら、眠りに落ちていた。お腹が空いて、早朝に目が覚めた。取りこぼした健康を回収しようと、体が躍起になっているように感じた。たくさん食べた。散歩に出かけた。

 自分が空っぽになったように感じた。マオくんを見ない。小説を書かない。そうすると私には何もない。ファン失格の私はもうマオくんを推すことは出来ないだろう。
 それは悲劇のヒロイン的な予感ではなく、マオくんの居ない退屈な日々にどこか安堵している自分がいることに気付き始めたからだ。
 空白のできた心で見渡した世界の中で、自室のカーテンの色がベージュではなくアイボリーであることに、なぜか急に気付いたからだ。

 作品は全て非公開にしたが、pixivのアカウントも、Twitterの鍵垢も表垢そのまま放置していた。もうきっと小説は上げない。自分のどす黒い感情に気付いてしまった今、他の書き手の人たちにも、読んでくれた人たちにも合わせる顔がない。私はマオくんへの愛を、ひたむきに紡ぎつづけることができなかった。人の愛を心の中で踏みにじった。そんな自分とお別れするために、もう全部やめるんだ。
 失恋したような気分だった。すかすかと風の吹く喪失感に落ち着かなくなって、手のひらを胸に当てて温めた。折角小説を書く力を得たと思ったが、あれはきっとマオくんという偉大な存在と、読んでくれる人たちの存在によって辛うじてもたらされた力だ。それらを失った私にとっては、初めから得ていなかったも同然のものだった。
 しかし、意外なところで読みは外れた。
 机の中から、何気なくぐしゃぐしゃの紙の束を引っ張り出した。自分と言う存在を嘲るために、清算するために、そうしたつもりだった。手のひらでせっせとしわを伸ばして、シャーペンで殴り書きにされた文字を目で追った。
 黒い線で浮かび上がる紙の向こうの世界は、案外、捨てたもんじゃなかった。宙ぶらりんな物語に結末を与えようという気持ちは、全く違和感なく湧いた。パソコンを開いて、新しいファイルを立ち上げる。既存の文字を画面上に入力する。自然と、あの頃の私が知ることができなかった言葉が、その後ろに追随していった。
 「書く」という行為への純粋な喜びは、私の中から消えてはいなかった。退屈な日々に意味が生まれた。バイトに行って、食べて、寝て、排泄をして。生きるための営みの中に、小説を書くことが溶け込んでいった。分からないことを調べて、言葉を吟味して、たまに投げ出したくなりながら、その地道な作業をひたすら積み上げていった。マオくんの居ない退屈な物語でも、そう思えてならなかったとしても、淡々と紡ぐことに意味があると思った。
 幾日かそんな日々を過ごして、私はその小説を完成させた。決して誰に請われなくても、面白くなくても、楽しかった。ずっと気がかりだった幼き日の自分が、そのウインドウの「×」を推した瞬間に、目の前で煌めいて成仏したような気がした。その時私は悟ったのだ。

 日常から伸びる線というものは、自分の知らない間に、あるべき場所へと繋がっている。
 外出自粛とか、世界情勢とか、タイムラインの流行とか、マオくんとの出会いとか。
 それらの点と点同士でしかなかった事象は、「小説を完成させた」というイベントを目の前にして、ようやく初めて線を結んだ。すべてはこのためだったのだ、と。

 私は、全てを消すことにした。
 〈今まで読んでくださって、ありがとうございました〉
 簡単な別れの言葉を投稿する。すると、徐々にリプライが届く。〈どうしてですか、もう書かないんですか〉〈すごく寂しいです〉〈もう決められたことなら何も言えません。めりやすさんの小説が大好きでした〉惜しむ声が浮かんで消えていく。私の作った小説を好きだと思ってくれた人が、こんなにいたんだ。狭窄した視野の外側の広さに、驚いた。だけど、これらを予想し、心のどこかで打算的に欲していた自分もいたのもまた確かだった。このために、私は彼を使ったようなものだ。
 ああ、そうだ。

 私は、推しを消費したんだ。

 ピコンとマオくんのツイートの通知が届く。私はそれを眺める。不思議なくらい何も思わなかった。
 きっと、私は彼を食べつくしたのだ。
 けど、何を措いても愛おしい存在だったのは確かだ。彼の一息、一言に、私は何度も救われた。彼が配信を始めてくれることで、嫌なことをすべて忘れられた。彼の歌声が、血の沸き立つ感覚を思い出させてくれた。
 その日々は、揺るがない事実だ。今がどうでも、これから先の未来がどうなっても、消えることも変わることもない。
 マオくんが私を変えてくれた。
 マオくんに変えられた私は、もうマオくんを必要としないのだ。

 薄情だろうか。薄情なんだろうな。
 ごめんマオくん。でも、大好きだった。私の最愛の推しだった。
 机から立ち上がって窓を開け放つ。ぐっと伸ばした体肢と胴のまわりに、しんと冷えた空気が流れ込む。はあっと吐いた息が白く流れ出す。私の身体の外側へ、私の温度が広がっていく。世界が一つずつ、温度を持つ。色を付ける。

 あなたと出会ったこの場所から、まだまだ伸びていく道の先へ向かって、私は歩いていく。
 きっとまたどこかに繋がっている、長い、長い、道のりの果てを目指して。




(おしまい)

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