ゆるみの先生と話してて

ゆるみの時間の原点である師匠と話してて、以前とは違う空気を感じていた。

お互いの意向を探り探り話す感じがなくなっただけでなく、何より頭でなく身体で会話をしているようだった。

個々の身体で感じる感覚はそれぞれだけれど、確実に奥の奥に眠る普段動かさない部分を共に動かそうとしている人間として、通じ合うものがあるのだ。

私にはまだ小さい娘が2人いる。
先生には小学生と中学生がいる。
先生は塾をやっているのでさまざまな子どもたちと日々接している。

最初はたわいもない、あるあるな子どもの話から入り、そこから学びについての話になった。
本を読む子は勉強をしていてもスムーズに頭に入ってくるとのことだった。一方で本を読まずに感覚で動いている子はアート性というか、思いもよらないアイデアを形にしていく様に驚くことが多いそうだ。

ある読み聞かせのイベントで歴史に詳しい子に出会ったことがある。読み聞かせをするお兄さんが少しでも作者や当時の情景について話をしようとするものなら、単語を拾い上げて解説してしまう。

一方で、絵本全体の世界そのものを楽しもうとする子どもたちが大半で、なんとなくわくわくするとか、楽しいとか、そんな感想が多かった。ただ胸をときめかせて、言葉になる前の思いを味わっている感じであった。

確かに頭で理解し、興味があるのであればとことん調べてみることは大賛成だ。ただ、部分しか見ずに全体を見失ってしまうことは、ある経験の損失な気がする。これもまた、何かを得るなら何かを捨てよと言われそうなものだが、まだ幼い子どもたちが常に全体を楽しみながら部分を理解をするのは高度な気がする。

親の方針によっても変わってきそうである。
知識やテクニックばかり磨いてきた親としては、その正義を子にも伝えたくなるだろう。
それよりも大切なものがあると主張する親ならば、基本的に何も伝えないか、もしかすると感覚を味わうことの大切さを伝えるかもしれない。

そもそも、子どもたちにあれこれしようと考えてしまうこと自体が、私たちが受けてきた教育の賜物なのだ。誰かに教わることが前提なのである。実は日本において誰かが誰かに教えるスタイルの確立の歴史は浅い。よくよく考えてみれば、全員を同じ方向に統制しようとする教育はすでに無理が生じていそうだ。

できるだけ子どもたちに任せてみたい。
どう育とうと親の愛に変わりはないし、いつだって最も応援している存在なのだから。

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