独身と家族持ち
独身の時は最高で40時間ほど通しで働いてみたり、渋谷にいる知らないおじさんの車に乗り込んでみたりなど、かなり無茶をした。
今はなにか無茶をしそうな時、妻の顔がよぎる。
自分になにかあった時、どれだけ悲しい顔をするだろうとか、そんなことを考えてしまうのである。
ずいぶん大人しくなった。
とにかく26歳までの自分は生き急いでいて、会社に入れば5年以上の先輩を1年で抜くとか、会社の温いやり方にモノ申したりとか、会社帰り、土日にたくさんのビジネスパーソンに会いに行ったり、休むことなく成り上がろうとしていた。
そのおかげか、確かに営業成績が良くなったり、いろいろな繋がりができたり、視野も広がったのだけど、どこか寂しい感じはなくならなかった。
何かを埋めるための時間の浪費
大きな案件の契約に成功しても、楽しい場所に行っても、美味しいものを食べても、ポッカリ空いた穴をどうしても埋められなかった。
ブックオフに半日、あらゆる興味ある本を立ち読みしてたこともある。
イベントに顔を出しては、片っ端から人と話したりしていた。
僕は、今の若者もカタチを変えてこんな風に見えない何かを埋めるために行動をしているではと思うことがある。
焦燥感を埋めるための行動になっていることがないだろうか?
僕は、それは麻薬みたいなものと思っている。
そしてどうやら、独身の人ほどそれを求める強さが高まることも、たくさんの人と接していて感じている。
家族を持つと、別の感覚が生まれる
ハッキリ言って、結婚しても自分は変わらない自信があった。
相手に配慮しつつ、ずっと好き勝手生きていくと思っていた。
実際はちがっていて、いつ何時も妻のことを考えるようになった。
あれだけ刺激を求めて生きてきたにも関わらず、週末はゆっくり過ごし、歩く速度はゆっくりになり、ご飯はゆっくり食べ、人との繋がりもゆっくりだ。スローライフというものか。
そういえば、高校、大学でヤンチャだった友人も、家族を持ってからかなり大人しくなった。
もしかすると、埋めたかった何かは、確かな繋がりなのかもしれない。
人類のコミュニケーションは宗教、つまり信仰から生まれているらしいけど、信じる何かをいつも人は求めているのかもしれない。
26歳までの僕が探していたものは、きっと”確かに信じられるもの”だったんだろう。
言葉として表せないものかもしれないけど、家族を持ったことで、”確かにある何か”を持ったことで、穏やかでいられるようになった。
独身と家族持ちでは、生きてる感覚がちがう
正直なところ、なんとも表現できないのでわからない。
でも確かに、独身の時のその人と、家族を持っているその人では、大きな変化があるはずだ。
大きく違うことは、変化させたい欲求と、変化させたくない欲求ではないだろうか。
以前の僕は、家族持ちで落ち着いている人は、夢をあきらめた人とすら思っていた。家族がいてもやりたい気持ちさえあれば関係ない。
ところが、その感覚こそがズレであり、大局観でモノゴトを見れていない典型なのである。
家族を持っている人で、いわゆる落ち着いている人は、満たされている。
つまり、幸せの絶頂であり、変える必要がない。
だからこそ、反骨精神があるわけでもなく、がむしゃらに動く必要もない。
自分が家族を持ってみてわかった、新たな感覚だった。
頭では理解しているつもりだった、「守りたいものができる」ということ。
こんな幸せなことはないと思う。
そして家族というものは崩れやすいものでもある。
崩れやすいからこそ、家族持ちを怖がる人がいることも知っている。
独身のまま生きることもまた、きっと僕にはわからない幸せがあるのだろうと思っている。