「ただいま」がしっくりくる、れもんハウスが帰る場所になった日に
昨日もれもんハウスでゆるみの時間を行った。
6名が来てくれた。
私は場の随筆家を名乗りながら、実はまだ、れもんハウスを言葉にできていない。
というのも、れもんハウスは私にとってまったく新しい存在であり、内在する言葉の要素を紡いでいくことが触り程度しかできないでいた。
春から訪れ、かれこれ10回目の訪問となった。
そろそろれもんハウスについて語る頃合いと思った。あくまで個人的な見解であり、それぞれにとってのれもんハウスがあることは、あえてお伝えしたい。
入った瞬間に存在承認がある
「ただいま」
初めて訪れたれもんハウスで放った言葉に、自分で驚いた。
「とか言いたくなる」と、後付けで笑いながらごまかした。でも不意を突いて出た言葉がそれだったのである。
「こんばんは」
知らないのに、知っているかのような感覚になる人たちと挨拶を交わす。
初めてなのに、当然のように溶け込んでいく。
言葉を交わしていないのに、友人の家に遊びに来た際にたまたま先に来ていたその友人が、既に友人の枠に入って暗黙の了解を得るような、そんな思い起こしがあった。
これはどういうことなんだろう?
そういうルールなのだろうか。
いや、そのような縛りがあるようには到底思えない。ホテルや航空で見られるような、徹底して教育され心地よさを実現させるそれとはどうも様子がちがうのだ。
初訪問で受けた衝撃はそれは凄まじいもので、紹介してくれた友人が言っていた「たぶん合うと思う」が、心の中でカチッとはまる音を放ち、ストンと自分の中に落ちた。
読書会をやってみて
この心地よい場で、まずは何かをやってみたいと思った。本を読んでばかりいるので、本が好きな人で集まる場がまずはやりやすいと思った。
「今日はよろしくお願いします」
何が起こるかわからない初めての場で、緊張と高揚が入り混じった声を上げながら、敷居をまたぐ。
掃除をしている人がいた。
よく来る人なのだろうか。
挨拶だけ交わす。
実際はそうではなく、れもんハウスを訪れたばかりの人だ。時間があるし、掃除が好きだからやっているだけという。
読書会の中でもよく人の言葉を味わう方だった。
そして、自分の思いの丈を思い切りぶつける人だった。
一見、責めるようにして相手を困らせそうな言葉なのだけど、受け手の器ができていると、こうも柔らかくなるのかと驚く。阿吽の呼吸によるコミュニケーションがいかに大切か、その様子を見ていて身に沁みた。片側の姿勢が強いとか弱いとか、そういうことではないのだ。
私は『52ヘルツのクジラたち』を紹介した。
映画にもなった、本屋大賞を受賞した作品である。
つらつらと感想を述べていたが、物語に没入するように話を聞いてくれる。悩みごとを打ち明けている時に、ただ待ってくれている親友のように。
この安心感はれもんハウス独特のものであろう。優しさともちがっていて、家族感と言ったほうがいいかもしれない。家族は、表面的な優しさを見せずとも、それに近い何かを常に漂わせる関係がある。
そんな前提があるからこそなのだろう、他の方の話を聞いていて、形式的なものを何も感じない。まさに自由に個性あふれる感想がそこにはあって、自分にない世界と視点を贈られた。その人にしか見えない観点こそ、感想でもっともおもしろいところである。究極、誰にもわからないぐらいがいい。
実際はその人にしか見えない観点を提供することは難しい。きょとんとされすぎても話が弾まないからだ。
しかしれもんハウスではそれができる。そういう場所なのだ。
ゆるみの時間をやってみて
かれこれ5回目となった。
ゆるみの時間は、私が特別に提供するものがほとんどない。
体操をして、香りを嗅いでもらい、言葉を投げかけ、瞑想する。
いつも自分がやっていることの範囲を広げただけの場だ。
いくつかのきっかけの中で、内から生まれてくる何かを感じた人がそれを掬い上げ、声としてくれる。
その、何かを掬うことへの素直さにも驚いている。
れもんハウスの参加者は、みんな内なる自分の声に真剣だ。
前向きなことも後ろ向きなことも、すべて受け入れる。
「よかった」だけで終わらせない。
起こることを平等に見るスタンスが、なんとも清々しい。
やる度にゆるみ後に感想をいただいたりアンケートをいただくので、少しずつ変化をさせている。声をそのまま反映させるというより、さらにゆるむのにいいアイデアを積極的に採用している。
何より、心地いい環境になればなるほど、身体はゆるみやすくなる。
一緒に発展させていっているようで、それもまたうれしい。素直な声ほど糧となる。れもんハウスは心地よさの提供だけでなく自分をさらに洗練されたものにしてくれる。そしてそんな自分がまた提供するゆるみの時間が、みんなにとっていいものとなって循環する。しかもそれらは見えないコミュニケーションなのである。
ゆるみの時間をやるごとに、れもんハウスの見えない空気を感じられる気がしていて、そしてゆるみの時間で受けた印象がそのままれもんハウスから受ける感想として言葉を生み出していく。
「ここにいていい」と実感できること
居心地のいい場は多くある。
家族、職場とは別に存在するコミュニティはすっかり珍しくなくなっていて、各地域でどこに行こうか迷うほどになった。
安心安全の場をいかにつくるかを中心とした話題もすっかり落ち着いた。もはやそれは前提となり、新たな視点を模索するようになっている。
ただ、安心安全といった観点からすれば、れもんハウスは群を抜いていると言っていい。実際、初めて訪れたときの印象はすべてのコミュニティが教科書にしてほしいほどの「身内感のない」「力が作用しない」空気が流れていた。
れもんハウスを象徴するコピーがある。
あなたでアルこと
ともにイルこと
このコピーにすべてが濃縮されている。
私が書ききれない何かがまだまだ含まれている。
ただ、私がこの半年ほどで感じたれもんハウスを一言で言うならば、「ここにいていいと思えること」が何をしていても感じられること、この凄まじき奇跡を受け止めている。
それは何よりの個人の存在承認であり、そのことが個人の「やりたい」を湧きあがらせる。そして、自然に手を差し伸べてくれる仲間がいる。
この世界において、いのちをここまで尊べる場があることに、私はこれからの社会の在りかたにまだまだ変化の余地があることを感じる。
言葉にできないことがたくさんある。
だから、あえて言葉にしてみる。
これからもこの場を感じていきたい。
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