【短編⑥】第3ボタンと現代語
「それね、わかるよ」
裕太は話す。
どんなこともわかってしまう天才か。
何を言っても、この人からは「わかる」という言葉が出る。
わかる、わかるよ。
いや、わかるはずがない。
人の話がわかる人なんているのは、ただの詐欺師だ。
いくらわかろうとしたところで、人の気持ちなんてわかったもんじゃない。
僕は誰かに自分の気持ちをわかってもらったことなんてない。
「わかった」と相手が言うだけだ。
正直なところ、自分でもわかっていないのだと思う。
だから、「こういうこと?」と相手が確かめてくれたとしても、自分で合っているか判断できない。
裕太のような反応が、実は正解なのかもしれない。
なんでも、わかるということにしておく。
そして、次の話題に移るというのが、人としてのコミュニケーションなのだろうか。
自分のことなってまったく理解されないと落ち込む人がいるけれど、理解されなくて当然。
だって、わからないのだから。
僕はわからないけど、みんな自分のことはわかっているのだろうか。
わかっているから、誰かが自分のことを話したときに、肯定や否定ができるんだろう。
「おはよう。また朝からしけた顔してんね」
奈美だ。
「どうせまた死ぬのが先か、生きるのが先かとか考えてたんでしょう」
確かに、わかるのが先か、わかってもらうのが先かということに似ているのかもしれない。
「学校に遅れるよ。先に行くね」
ゆっくり地面を踏みしめながら歩きたい僕とちがって、奈美はテンポよく、そして速く歩いていく。
「あー、わかるよ」
裕太が話す。
「生きていてもつまらないことってあるよな」
僕がぼーっとしているのを見て、先を読んだかのように遠くを見つめながら話す裕太に、返答しようか迷ってやめた。
とにかくゆっくりと歩いた。
鳥の声が聞こえる。
スズメの声も好きだけど、8時ぐらいに家を出るとよく鳴いている、あの声が一番好きだ。鳥の名前はわからない。
「何かあったか? オレでよければ相談に乗るぜ」
こういうやつはどこにでもいる。
ただぼーっとしてゆっくり歩きたいだけなのに、その仕草や表情を見て、「元気がない」と思い込むタイプだ。
そして、思うだけならまだしも、「自分はぜんぶわかっているから、包み隠さず話してみな。受け止めてやるから」とでも言わんばかりに、おせっかいさを振りかざす親切ハラスメントだ。
「どうした? そんなにオレの顔を見て」
こういうタイプは自分がいいヤツであることに疑念がない。
誰かに貢献しているという自信があるからこそ、いつも堂々としている。
そして、その自信があるからこそ自分があるので、たとえば僕が心からの毒でも吐けば、たちまち精神が崩壊し、立ち直れないもろさを持っている。
そう言いながら、やきそばパンを取り出し、食べる裕太にこう言い放った。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
◇
「なんでいつも少しだけ遅刻するわけ?」
ホームルームが終わり、次の授業までの間に奈美が話しかけてきた。
「ねずみが王になる日」という最近ハマっている漫画を読みたいというのに、邪魔だ。
「ねぇ、聞いてる? 遅刻時間がいつも絶妙すぎて注意するまでにいたらないって、先生困っているみたいよ」
そう言う奈美は、シャツの第3ボタンを開けている。
暑がりなのはわかるが、第2までにしておいたほうが先生にも目をつけられることはないのに、なぜ第3なのか。
「そんなに私のおっぱいが気になる?」
「なんで第3ボタンを外すのか気になって」
「え、だって暑いじゃん」
「暑いのはわかる。でもこうやって、男なら見ざるを得ないだろ」
「見られても減るもんじゃないしな」
どこかのおじさんのフレーズのように返してくる。
そういえば奈美は、スカートの中を覗かれようがまったく気にしない。
無神経ということなのだろうか。
小学生ならまだわかるけれど、僕らはもう高校生になった。
少しは気にしてもいい頃だが。
「見たい?」
「え、そりゃ見たくないって言ったらウソだろ」
「じゃあ、今週末行く!?」
「行くって、どこへだよ!」
「決まってるじゃない! 『スター・フォース~新たなる果汁~』のこと!」
なるほど、会話が噛み合わない。
ただ僕は、どれだけ話をそらされようが、第3ボタンをなぜ外すのかということにまだ納得がいっていない。
「映画のことはまた話すとして、なんか先生が特別な補講するとかなんとか言っていたから、覚悟したほうがいいよ~」
気が散って話が入ってこなかった。
暑いだけ?
絶対にそれはない。
暑いだけで第3ボタンを外すなんてことがあるだろうか。
第3ボタンを外したところで、どれだけ変わるんだ。
第2ボタンで十分に風は通る。
なぜ、今日に限って第3ボタンを外しているんだ。
「第3……」
「はい、席に着けー!」
◇
現代語の橋本がやってきた。
橋本は、全員が席に着いていようがお構いなしに「席に着け」と言う。
とにかく、僕らのことなど見ていない。
そんなことより、奈美がなぜ第3ボタンを外しているのかを聞きそびれた。
僕は5分の間に絶対にその謎を明らかにしたかった。
一度問いを立て、本人にも確認したにも関わらず、間を置いて次に持ち越すというのがすごく嫌いだ。
保留が大好きな日本人というけれど、みんながみんなそうではない。
橋本は、上から奈美の胸を除いた。
絶対に気づかれないと自信ありげな顔で、視線の8割を奈美の胸に送っている。
その目線には、教室にいる全員が気づいている。
第3ボタンを外している女がいたら、教壇にいる人間からすれば格好の餌食だ。
注意しないほうもおかしい。
誰も、奈美の豊満な白く輝く胸を隠そうなどとはしないのだ。
他の生徒は少しでも乱れていたら注意されるというのに、どういうことかと思う。
どう考えてもおかしい。
なぜ、誰も奈美の胸について触れようとしないのか。
第3ボタンが外れているんだぞ?
男は気を使って言わないのかもしれない。
でも女はどうだ?
友達が明らかにおかしいことをしていたら、「ちょっとマジうけるんだけど」とか言いながらボタンを指差すはずだ。
朝、慌てて出てきたとしても、必ず途中で誰かに第3ボタンの話題を振られるはずだ。
登校時はぼーっとしすぎて気づかなかった。
でも、何人もの生徒がそのことに気づかないわけがない。
「先生、奈美のほう見すぎじゃない? 勘弁してよ」
奈美の友人のアリサが、さすがに我慢しきれず突っ込んだようだ。
それが正しい行いだ。
男は、それが言えない。
なぜなら、自分も意識して見ていることがバレるからだ。
決して、男には言えないことがある。
「先生、女子高生の胸がそんなに好きですか?」
なんて熟成された現代語の授業だろう。
生徒からこんな質問が出てくるとは。
「ふざけるな。私は見ていない。女子高生の胸にも興味はない」
これだけ100%のウソが言える人も、政治家を探してもなかなか見つからないだろう。
先生の立場というものもあるのだろうけれど、ここは教室。
目撃者が多すぎる。
先生、その返答はちがうだろ。
しかも、女子高生の胸以外の胸なら興味あると自信をもって公言しているような、少年のような素直さは、この現代語の授業において必要なものなのか?
断じてちがうと思う。
「別にいいよ私は。好きなだけ見てよ」
それもちがうだろ、奈美よ。
なぜこんなにもカオスな状況になる。
そもそも、第3ボタンに誰かが触れていれば、閉めたかもしれない。
たまたまさっき、僕が話題を振ったものの、絶対に誰かは気づいていて、その謎に迫りたくなったはずなんだ。
注意しない先生。
笑いながら先生につっこむ生徒。
ウソをつく先生。
気にしない本人。
誰も、この問題について本気で扱わないのであれば、セクハラにもなりやしない。
ハラスメントは本人がどう感じるかがすべてだ。
ここで、僕が状況を整理した上で先生を攻め立てたとして、なんだか自分が悪者になる気がしてならない。
いたって平和な教室なのである。
気になるのは先生の目線と第3ボタンぐらいだ。
わざわざ荒らして、教室をざわつかせ、学校中の問題に発展させる必要などない。
でも確かに、先生は5秒に1回は奈美のほうを見る。
それは問題ではないというのか。
頭がおかしいのは自分なのではないか?
教室はいつものように、いつもの時間に、授業をしている。
それを乱そうとしているとしたら、僕はとんだ厄介者だ。
先生を呼び、客観的に見てもらいたいとも考えたが、何がおかしいかを伝えるのが難しい。
先生が5秒に1回、奈美を見ること?
奈美の第3ボタンが外れていること?
みんながそのことに触れないこと?
「なんだお前、熱でもあるのか? おかしいぞ」
と鼻で笑われそうなものである。
あぁ、そうか。僕の頭がおかしいんだ。
もう、第3ボタンについて気にするのはやめよう。
現代語が終わったあとも、奈美にそのことを追求するのはやめよう。
先生にも、申し訳ないと思った。
そこに胸があれば見る、当然だ。
「おーい、シャツのボタンが落ちてたぞ」
教室のうしろで声がした。
授業の様子を見てまわっていた校長先生が、生徒のシャツのボタンを拾ったようだ。
まさか、奈美のボタンか?
外していたのではなく、飛んでいた?
サザエさんのエンディングテーマが頭を巡った。
今日は楽しいハイキング? そんなことを考えている場合じゃない。
そうなると、つまり奈美は……ボタンを外しているわけではない。
もう一度、じっくりと奈美の胸を見てみた。
第3ボタンが外れている? 知りたい。
このなんとも言い難い心当たりを、どうにか解決したい。
人間の「知りたい」という欲求がここまで強いことを初めて知った。
「先生、彼が奈美の胸をさっきからジロジロ見ています」
「僕も感じてました。彼、ずっと見ていましたよ」
「うわ、キモ」
「ありえないわ」
教室中が冷たい目線を僕に刺す。
「おいおい。授業に集中しろよ」
お前が言うか。橋本のくせに。
というか、なんだこいつら。
僕が奈美をじっと見ていたら、急に態度を変えた。
「なんだなんだ、結局、このボタンの持ち主はいないのか?」
校長先生がそう言って他の教室へ行こうとしたとき、奈美に目を止めた。
第3ボタンが外れていることに気づいたのだ。
よし、校長先生なら大丈夫だろう。存分に注意してくれ。
「今日は暑いからな」
そう一言だけ残し、校長は教室を去った。
そして、注目の的が僕に戻る。
どうして僕は奈美の胸を見ていたのか、うまく説明しなくてはならない。
最初の一言で、僕の運命は決まるだろう。
さて、今日の現代語の授業は、多くを学べそうである。
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