心からの笑いに囲まれることを想像する

「人は心から笑っているとき、すっかり身体がゆるんでる。それなら、身体をゆるませてみたら、もっと笑える自分に出会えるかも」

これは毎月行っているワークショップ「ゆるみの時間」をスタートさせるときに浮かんだフレーズであり、半年経った今も色褪せることなく自分の心を揺さぶっている。

笑いといえば、お笑いの世界を想像する人もいるかもしれない。その笑いも心身を活性化させ元気に変える尊い世界だ。
ただ、この「笑い」は感動してほんのり笑いながら涙が出る美しき姿を想像している。
いずれにしても人の笑顔に力があることは周知の通りだ。

私は日常でこぼれる笑いの先にある「心から」を付け加える。何が違うのか。


心から笑えていると思う瞬間

心から笑えている状態を科学的に分析してしまうとよからぬ方向にいくことを危惧している。探究はするものの、あえて絵の如く抽象的にそのままのものを自分に保存したいと思っている。

ここは、とあるシーンを思い出したい。
私の娘たちを見ていて思う。
娘たちの場合は純粋無垢なこともあり、頻度高く心からの笑いが見て取れる。

混じりっ気ない真っ白な笑顔と声に私たちは癒される。楽しさがこんなに伝わる波を日常的に発せられる彼女たちは天才だ。赤ちゃんの笑顔が心身を疲弊させた母親を一気に回復させるのも納得である。

子どもたちは外でも同じようにケラケラ笑いながら遊ぶが、「心からの笑顔」を見せてくれるのはやはり家のようだった。
外では他人がいたり、親に言われたルール、保育園で教わったルールが課せられているためなのか、少し遠慮が見られる。

どうやら第一に挙げられるものがあるとしたら、緊張している場では心からの笑顔は難しそうだということだ。


慈愛に満ちた優しい人が笑わない理由

私のまわりにはそれはもう優しさに溢れる人でいっぱいである。人に優しくできる人は自分に優しくできる。ゆえにその笑顔も心からのものに違いないとするのが私の仮説だ。

ただ不思議なことに遠慮がちに笑う人が多かったりする。その優しさゆえかもしれない。他人に依存しているわけではない。確固たる自分の意志を節々で感じるからだ。

「鬼滅の刃」に出てくるキャラクターに胡蝶しのぶがいる。胡蝶しのぶは慈愛といえばとすぐに浮かぶようなキャラクターであるが、いわゆる鼻が効く主人公である炭治郎が朗らかに話す彼女に向けて「怒ってます?」と突然に聞く。

いつも笑顔で朗らかな彼女はその質問から引き出され、大切な人を殺した鬼への怒りを淡々と語りだす。その笑顔の裏にとてつもない怒りを秘めていることが明らかになる。

先の「緊張」のキーに加え、奥底に潜む感情が未解決のまま放置されている人は、心からの笑顔が難しいことがわかる。私からするとそれも緊張が解れていないのであり、固くうずくまっているように見えるのだ。安全安心な場でないと感じることで生じる緊張と違い、奥底に潜む怒りが生む身構えに繋がる緊張である。


心が源なのであれば、心にアプローチすれば解決するか

元々、私は大学の頃から心理に興味があり学んでいた。しばらくコーチやカウンセラーとして活動する時期もあった。心が病んでいて様々な障害が起きるのであれば、心を癒せば治っていくはずだ、と。

確かにその通りと思う。
現に心理療法は昔から人の心を救ってきた。
今だにフロイトやユングが支持されるのは、その研究と成果が世界中で認められているからであり、彼らから学んできた学者たちが新たな心理療法を生み出し続けている。アドラー心理学は日本ですっかり有名になっている。

ただ、私は取り組む中でひとつの疑問があった。

「心理に統計学を用いていいのだろうか」

心理学および心理療法は、たとえば10,000人のうつ病患者がいたとして、8割がある方法を使って改善した場合、その方法は採用されるといったものだ。別に特別なことでもなんでもなく、多くの分野でこのやり方が行われている。

医療であればなんとなくわかる。
血流が悪くなっているのは心臓のポンプが弱っているからポンプを強める薬を出そうとか、ポンプを交換しようとか、そういった話だからだ。多くの人がこの方法でうまくいくなら採用しようとなるのはわかる。

ただ、心については仕組みの実態を捉えにくい。そもそも心とは何か。誰か見たのか。誰か掴んで、その歪な形を研究したのか。そうではない。

何を見てきたか。
人の身体である。
ある事象や経験に身体がどう反応するか、その反応をどうやら「心が身体を動かす」としている。言うならば身体が心そのものなのである。


一心同体

身体は心の入れ物であり、心そのものだ。
ところで日本の心は神と共にある。
八百万の神を信じる日本においては、何においても神が細部にまで宿る。腕や足に神が宿っていても何ら不思議ではない。

身体はすでに完璧である。
神秘と奇跡の賜物であり、まさに神の創造物なのだ。人間は神がこしらえた完璧な生き物だ。

キリスト教に見られるひとりを崇めるものとは違う。あくまで進化論に基づき、卓越して完成された生物として捉える。

この、完璧な身体をできるだけ整った形で維持したい。いわゆる身体そのものの機能と、心と呼ばれるものの循環を止めないようにしたい。そのために緊張は邪魔なのだ。

ここで言う「緊張」からあえて試合やプレゼン前に見られるようなものは除外する。その話は科学的に既に済んでいる内容だ。

身体を動かしたときに心も動く、心を動かしたときに身体も動く、その両立が自然である場合に、一心同体となる。身体と心が一致しているとも表現される。

変われる人と抵抗の関係

人間は完璧であるが、ホメオスタシス(恒常性)と呼ばれる多くの生き物に与えられた機能が邪魔になることがある。

例えばダイエットしたいのにできない、性格や性質を変えたいのにできないなどだ。変わろうとしても元に戻ろうとする。怪我をすると元に戻ろうとするように、その範囲はかなり広く働いている。

では、人は変わらないのか?
そうでもない。

私は妻と結婚して変わった。
すぐにキレたり散財するいわゆるダメ男気質だったが、穏やかでコツコツお金を貯める人間になった。人付き合いもかなり変わった。

まわりの友人も次々と変わっている。
出産、転職、新たな取り組みを始めるときなど、あるきっかけを経て変わることもあれば、出来事を通じて大きく変容することもある。

私はある共通点に注目した。
抵抗の有無だ。

バランスが伴わない出産(例えば妻は子供がほしいが夫はあまり気が進まないケース)。
現状から抜け出したい転職(例えばキャリアアップややりたいことに向けてではなく単に今が嫌だから辞めたいケース)。
まわりがいい感じだから自分もとにかく動く(他人の目から逃れられないケース)。

抵抗がある中で環境だけを変えようとする人は、一時的に何か変わった気がするがそのうちに同じような状況になる。先の心理的アプローチの話も同様である。変わろうともがいてもうまくいかないことが多い。

身体は恒常性を保つ。
変わろうとしても戻るのだ。
抵抗、すなわち抗うと戻ろうとする。

では、抵抗せずに変わればいい。
正確には抵抗と感じさせないようにして変わる。自然な流れで、作用を働かせることなく変わっていく。気づかないぐらいに静かにゆっくりと。


心から笑うためのゆるみ

緊張を解く、身体と心を繋げる、抵抗なく変化を促す。それらの統合が「心から笑う」に紐付けられるとしたら、なかなかいい話ではないだろうか。その取り組みの入り口が”ゆるみの時間”というわけだ。

ゆるみの時間ではまったく説明がない。
なのでやっている感がない。実感がない。なんとなく身体を少し動かし、香りを楽しみ、言葉を聞いて、ほどよくスッキリして終わる。

それでいいと思っている。
心から笑うためのトレーニングは、きつくなくていい。目標に向かわなくていい。効用や「いいこと」に繋げなくていい。ただゆるめばいい。私なりの今のところの答えのようなものだ。

東村山に来れそうな人は、是非とも遊びに来てほしい。

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