【短編⑪】ひとり旅

冬の那須高原。

辺りはもう暗くなり始めていた。

「誰かいませんか?」

「いませんよ」

扉の向こうから、か細い声が聞こえた。

どうやら誰もいないようなので、私は改めることにした。

宿を決めておけば、こんなことにはならなかった。

今から名古屋に帰る気にはなれない。

ネットで宿を見ても、どこも空いていない。

ようやく見つけたと思った宿の1泊の料金は、ヨーロッパに行けるほどだった。

私は、なんて運のない男なのだろう。

2020年と2021年をまちがえるなんて。

日にちは合っていたのに。

曜日を間違えるなんて、このサイトどうかしてると笑った自分を恥じる。

笑われていたのは自分だったのだ。

それでも、こんな私を彼女は見捨てることはなかった。

宿を探し続けている時間、うんざりしてしまっても仕方ないのに、優しい微笑みで元気づけてくれる。

こんなおっちょこちょいな私でも、彼女を見る目はあったらしい。

なんて優しい人なのだろう。

途中のコンビニで買ったヨーグルトレーズンチョコも、残りわずかとなった。

ネットで満員でも、実は直接行ったら空いてるなんて奇跡は起こらないだろうかと期待しているのである。

途中で目に飛び込んでくるラーメン屋が、やけに美味しそうに見えた。

「今夜は宿でのんびりしながらお食事を楽しもうって話だったよね」

そう、彼女の言う通り、今夜はのんびり過ごし、何もしたくないのだ。

ラーメンは美味しそうではあるが、決して手を出してはいけない。

この苦労を乗り越えた先に待っている温泉と、ビールと、うまい飯を想像した。

そろそろ限界かと、あきらめかけた私たちに奇跡は起きた。

私たちが訪れる前に、ちょうどキャンセルの連絡が入ったという宿があったのだ。

本当にツイてる。

ムーミン一家のハウスを思わせるような、可愛い形と色の宿だった。

那須高原にこんな宿があったとは知らなかった。

「お部屋までご案内します」

オーナーご夫妻の子どもだろうか。

とても美人で着物を着たお姉さんが、美しい歩き方で前を歩いている。

途中、「男」「女」という暖簾の文字が見えた。

温泉に入りたいという望みはクリアだ。

お姉さんは、湯の効果について詳しく教えてくれた。

慢性的な肩こりの話をしたけれど、肩こりに効くかはわからないと言われる。

そこは、良く効きますよ~でよかったのではないだろうか。

部屋に着くと、思っていたよりずっと広い畳が広がっていた。

「ここ、8人部屋なんですよ。ご家族での予約をいただいていたんですが、キャンセルになってしまったんです」

「でも、そのおかげでこうして僕たちが来れたわけでして。この広さはびっくりです」

「僕たち? ゆっくりしていってくださいね。お食事は何時になさいますか?」

なんと、食事は持ってきてもらえるプランらしい。

温泉に入った後の休憩する時間を考慮して、2時間後にしてもらう。

「かしこまりました。それでは、失礼いたします」

美人なだけでなく、微笑みが可愛らしくて少し照れた。

あんなに美しい若女将がいるなんて、素晴らしい宿ではないか。

窓からの見晴らしも気持ちいい。

そういえば彼女がいない。

トイレに寄ったのだろうか。

まさか来てそうそう、そのまま温泉に入るなんてことはないだろう。

よく考えると、彼女と入り口に入った覚えがない。

なぜだろう。

オーナー夫妻に聞いてみた。

「いやぁ、見てないな。あなた彼女と来たんかい? ひとりだと思って、食事も一人分しか用意してないよ?」

やはりそうだ。

私は、彼女とこの宿に入っていない。

そうすると、車にでも残っているのか?

確かに私は、車を降りるなりすぐに宿に入り、手続きを始めた。

いや、何かがおかしい。

私はここに彼女と来たのだろうか。

一緒にいたような気もするし、いなかったようにも思える。

何がなんだかわからなくなってきた。

私は何も気にしないようにして、温泉に入り、食事を済ませ、眠ることにした。

鳥の声で、目覚める。

私は朝食をすませた。

この宿にはなぜやってきたのか、記憶になかった。

荷物をまとめて、宿を出る。

外の車の前で、彼女が待っていた。

「遅かったわね。早く行きましょう」

今日も彼女は、着物がよく似合う。

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