シリーズ:生きながら死んでいる存在~私と周りの障害者たち~第1話 一番近い君へ
Kくんと出会ったのは中学校だった。クラスの文字通り端っこで友達もおらず、休み時間をただただ浪費するような彼だった。
Kと仲良くなるのにはちょっとした迂回があった。ナヨナヨしているKに良い印象のない自分が、Kを決定的に嫌うようになるには兄が所属していた特別支援学級が関係している。
Kは数学の学力が低かった。授業について行けないと思った担任は、特別支援学級について「ナントカの教室」を受けるという名目で押しつけた。もちろん特別支援学級は数人の障害児の教育ですら満足にできるリソースがないので、彼はプリントを配られてそれを解き、採点してもらい次のプリントに行くというなんなら一人でもできそうなことをやることになる。
Kは思い込みが激しい人間なので、特別支援学級に来るようになると教室後ろにある冷蔵庫を発見し、「障害児は学校でジュースをもらえるに違いない」と思い込み特別支援学級の先生に俺にもくれとせがんだ。この冷蔵庫は中学校のバザーの際に特別支援学級で作ったジャムを売るために時期がくるまで保管しておくためだけのものだったのだが、Kはそれを認めない。兄に会うために頻繁に特別支援学級に通っていた自分もそれはよく知っていたので、Kというのは特別支援学級をなめてると怒った。兄と特別支援学級の2人目の担当教諭と一緒に「あいつはウザい」「シメてやらねーとな」と会話をしていたのが懐かしい。
そんなこんなで第一印象が最悪のKだが、私の小学校からの親友のYがKと同じくFPS/TPSが大好きなので意気投合してしまい、仕方なく自分もKとつるむようにした。
ただ、仲良くなったのはYが先だが、Kは思い込みが激しく被害妄想があるので、ある事ない事を言いまくる、それに少し嫌気が指したYが少し身を引いて、結局、自分とKの不思議な友情が残ったというわけである。
ここには少し後日談があって、YがKと仲良くなったのは体育の授業の最初に準備運動を自由に2人組を作らされるのだが、頼みの綱の私が中学校の入学式で作った新しい友達と2人組をつくってしまったので、余った者同士、つまりYとKである、これが組まされることが確定したから、仲良くせざるを得なかったということらしい。20歳を超えたあたりで、酒の勢いだったか、いきなり当時を振り返って「お前(筆者)が別のヤツと組むからKと仲いいふりしなくちゃいけなくなったんだぞ!!」は全員絶句の言い分だった。ちなみに幼少期、あまりに仲がよかった自分とYは、小学生4年の後半あたりから逆に倦怠期に入り、Yは俺以外の友達を求めるようになり私を遠ざける(遊んだりしないわけではない)ようなことをしていたところなので、こっちも気を遣って新しい友達を作ってみて、Yと共依存にならないように気を遣ったのに、ひどい言われようである。これは未だにKと私の「すべらない話」の定番である。
Kはシングルマザーの家庭の次男で、親は熱烈な新興宗教の信者である。Kももちろん毎週その新興宗教の集会に参加することが絶対であり、その新興宗教系の塾にも通ったことがある。この新興宗教に無理やりに参加させられて、よくわからない文章を暗唱し、よくわからない一体感をつくるということが極端にいやだったKは人間不信を思春期の進行と共にますます深めていくことになる。ある種、とてもかわいそうな家庭だった。父を早くに亡くしていたことで母親の言うことが絶対だったのが、一つの最大級の不幸だったと思う。
時は中学3年生、進学の時期。第0話でも書いた通り、学力テストの結果が芳しくないKを、担任や母親、特別支援学級の担任は心配して、本人の希望を完全に封殺して偏差値30台の私立高校にねじ込むことにする。志望1位専願なので評価点が50点だったか100点だったか底上げされたため、当然の合格だった。先の3人は高校受験で浪人するなんてことになったら大変だと思ってのことだったのだろう。しかしこのことはかなり後までKの心の中での憎しみという形で残り続けることになる。
仲のいい友達がいない高校に進学したKは、友達もほとんどできず、クラスのチャラい生徒達にいじめとイジりのグレーゾーンのような扱いを受け続けることになる。ただ、明確ないじめにまで発展しなかったのが何故なのかはわからない。運がよかったというべきだろうか。
ここで商業高校に進学した自分は、Kの未来を案じて自分と同じく日商簿記検定を受検することを勧める。これは総論でいえば今振り返ると大失敗だったが、完全独学で数ヶ月で3級に合格し、2級にもあと5点のところまで届く結果を残した。もちろん同級生からは「なんで芸能コースと普通科しかないここに来て簿記なんてやってんだよww」と散々バカにされたらしいが、それでも休み時間を全て費やして日商簿記検定に邁進したことそのものは悪いことではなかった。ただ、返す返すも自分が間違ったと思うのが、それが会計の道だったことである。
いじめもそこそこに流す生活に慣れた高校2年の冬、進学先の決定の時期が来ていた。自分はKに一緒に会計系の大学に行こう!と誘ったが、そもそも偏差値が極端に低い高校だったのでそこの学習ではセンター試験など通るはずもない。こういう高校の場合は、指定校推薦という制度を最大限活用して、地域のFランク大学に数十人単位で進学させるのだが、日東駒専に開かれていた指定校推薦(あまりレベルの高くない高校だったのでKでもクラス1~2位がとれた)は、母親によって完全に粉砕される。指定校推薦で大学に進学したいと言ったKは、母親の「推薦なんかで進学しても講義についていけないんちゃうん」「ちゃんと受験して合格せな大学はアカンで」と言われ、とうとう指定校推薦の申請をする当日までに説得することができなかった。その後AO推薦などもやるのだがだめで、とうとう彼はセンター試験で大学受験する覚悟を決める。ただ、数ヶ月独学しただけで何科目ものセンター試験対策ができるわけもなく、周りはみんな専門学校か推薦枠での大学進学だけで競い合う相手もおらず、ベネッセ高校講座を受講するだけの私財もあるわけもなく、センター試験は見事撃沈、一応センター試験利用入試を申し込むが全て不合格となる。
失意のドン底にいたKに、母親が熱烈に進めたのが就職率100%を謳う全日制専門学校への進学である。「アンタ!O原行きや!!O原は就職率100%らしいで!O原でええやん!!」。時は大学受験が概ね終わった2月末、他に選択肢は無かった。学費も出してもらえるということで、好きなコースに進学していいと言われて、彼は税理士コース(全日制2年制)に進学することになる。ここが地獄だとはまだ知る由も無かった……。
O原に進学したKは、いきなりの合宿に面食らうことになる。ここで友達をつくろう!というのが専門学校の言い分だったが、入学して1週間と数日しか経過していないのに知らない同級生数名と同じ部屋に寝泊まりしてもKにとっては拷問でしかなく、友情なんてものは得られないまま、合宿先を後にすることになる(もちろんできる人はできていたが)。このまま2年間、KはO原には友人はできないままだった。
税理士コースとは名ばかりだったことも衝撃的だった。税理士試験の厳しい受験資格制度のせいもあり、本当に税理士試験の勉強をできるのは一握りだった。入学直後の簿記能力テストで2級相当の知識を持っていると認められたら2級のカリキュラムのコースに、さもなければ3級コースに飛ばされるシステムだった。Kは割と高得点だったが、基準には届かず3級コースになってしまった。抗議したがもちろん無視された。2年しかないので、事実上この瞬間、税理士試験勉強ができないことが確定したのである。本当に名ばかりの税理士コースだった。
やる気をほぼ無くして全てを憎んだKだったが、1時間でも遅れると親に連絡がいき親が専門学校教員に説教されるという地獄システムだったのでサボることもできず、母親が恐いため中退することもできずに、彼はここでがんばらざるを得なかった。電車で1時間弱の道のり、電車が事故で遅れることが数度あった。遅延証明書をもって職員室にいくと、机を叩き遅延証明書をふんだくり握りつぶし「こんなものなんだ、お前がたるんでるからだ」と叱責された。学校には1時間前に到着するように乗る電車を変えた。
日商簿記2級にまで1年の間に合格できたKは、1年の冬、そう、あの恐るべき就活に身を投じる運命であった。持てる資格は日商簿記2級。高等学校はFラン。専門学校の就職部との戦いだった。
とにかく就職率を高くしたい専門学校は、なりふり構わずどこでもエントリーさせた。文字通り100通はエントリーシートを送った。エントリーシートを送っても、面接にすらこぎ着けることができない日々が続いた。祈られるたび就職部の態度は厳しいものになっていった。指導に力が入り怒号のようになっていった。ただただ項垂れて講釈を頂戴するしかなかった。CADが必須の職場にエントリーさせられたこともあった。試験でCADを使うことになったが、税理士コースのKにはCADがなんのためのものなのかもわからないまま採用試験が終わった。当然落ちた。
とにかく内定が必要だった。介護職にまでエントリーの幅は広がっていた。それでも内定は無かった。エントリーシートで足切りされて面接にすらままならない。エントリーシートを送った会社数は、もう数えることをやめた。意味の無い行為だった。死んだ子の年を数えるようなものだ。無い内定の仲間達も1人、また1人とかけていった。時は2年の冬、もう授業もない。内定のある者達は仲間達で卒業旅行としゃれ込んでいた。専門学校のPC部屋でエントリー先を探して、就職部に持って行き、エントリーシートを添削される毎日だった。残っていたのは3人くらいだった。内定は、まだ、なかった。
とうとう3月の卒業式を迎えてしまう。Kは卒業式に出席出来なかった。その日も入社試験の日だったからだ。二次会の卒業祝賀会にだけ出席したKは同級生に「あれ?お前卒業式いなかったよな?ww」とバカにされながら立食形式の、たいしてハッタリの効いてもいない、微妙なホテル料理を胃に流し込んでいた。卒業式の次の日も、その次の日も専門学校に来るように言われていた。3月いっぱいは生徒であるというのがその理屈だった。3月末まで粘っても、桜咲くことはついぞなかった。
専門学校の呪縛から解放された4月、母親の命令によってKはハローワークにいた。とにかく仕事を早く見つけること、それが母親からの勅命であった。しかしハローワークに通って簡単に仕事が見つかれば苦労はしない。通えど通えど担当者からもKからもため息だけが生まれた。何度通っても好転する兆しすらなかった。いい求人はハローワークまで落ちてこない。ましてや新卒カードを切り損ねてトラッシュに送った者ならなおさらだった。結局1年間浪費して、なにも得られないままだった。
そしてしばらくしたあるとき、Kは大学病院にいた。これだけ就職できないのは何かがおかしいからだという、母親の言い分だった。それはある意味で正しかった。彼はここで初めて、ASDという認定を受けることになる。年は22歳。22年を健常者として生きてきた彼へのこれ以上無い程の絶望感があった。彼は外界からの接触を絶った。
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