人生は忘れていたことを思い出していく旅路
わたしが好きな人たち。
バシャール(ダリル・アンカ)や岩瀬アキラさん。心屋仁之助さん。ジェフリー・マーシュさんや小山隆信さん。最近知った方ではSoniiさんのメッセージがとても心地良く感じます。
彼ら彼女らが発信する内容・メッセージ。そして存在自体にとても惹かれるのですが それは彼らシェアしてくれている内容がわたしへの教えというよりも わたしが忘れていたことを思い出させてくれている。
そのように感じるからです。
そのメッセージにふれることで どんどん自分の欠片をとりもどしていくような そんな氣もちがするからです。
精神世界の鉄人のトーマさんのブログを読んでいるとEducation(教育)の語源の話がありました。一説によるとEducationはラテン語のもとにしていてその意味は「もともと知っていたことを思い出させる」「本来の能力を引き出す」というような意味があるようです。
わたしが精神世界やスピリチュアルな世界の話に触れるとき たびたび こういった感覚が訪れます。どこかで聴いてような懐かしい感覚があります。初めてしったことでも初めてで無いような氣がするのです。
冒頭で名前をあげた方たちのメッセージに関して わたしが惹かれるのはそれが理由です。そのメッセージがわたし自身について思い出させてくれるからです。
「そうそう 忘れていたけど自分ってそういう存在なんだ」
「わたしは魂が根っこで肉体は意識の乗り物なんだ」
「死は終わりではなく過程のひとつなんだ」
こういった話はある人にとっては突飛かも知れませんが わたしにとっては違和感なく馴染む話です。むしろ『死が終わり』という方が違和感を感じます。
よく 生きてさえいれば良いのだという話を聞きますし 死んだら何も残らないとも聞きます。これらの話はすべて死が終わりのような印象があります。(もちろん文脈を抜きにして語れる話ではないのですが)
どうも自分には死が終わりには思えないのです。死はある意味で始まりでもあって わたしたちは永遠の旅を続けているように思います。そんな自分でも以前は死は向こう側の見えない世界。生は見える こちらの世界だと思っていました。
しかし最近 見えない世界も見える世界も まさに今この瞬間も交わっているというような感覚がしてきたのです。今の自分にとって死は肉体を離れて魂となり さらに学びを深めていき また肉体をまとい この世界で旅をする。そんな感覚がします。
ずっとそのような旅を繰り返している。そんな氣がします。
魂の世界もあちらにあるのではなく わたしたちのすぐそばにあって その距離は遠くありません。わたしたちには魂の世界を感じる感覚が備わっていて そのことを直観的に理解することが出来るのだと思います。
複数の人がキリストの生まれ変わりだという話も以前はどうしてだろう?と思っていましたがキリストという意識をチャネリングしているのだと思えば 辻褄が合います。何故ならわたしたちの本質は意識だからです。
普段は自分の肉体にフォーカスしているので この肉体がわたし。そう思っていますが意識はそうではありません。
時間も空間も超越して すべての時間・場所に存在することが出来ます。
アヤワスカという儀式では人がイーグルとなり360度の視界を持つことが出来たり 未来の新聞を読んだ人の話が出てきますが それも人の本質が意識であることの表れなのではないかと感じています。
わたし自身はこういった感覚がありましたが こういったことを発信することには非常に抵抗がありました笑。
自分が正確に理解出来ているとも思えないし 話しても理解されるとも思えなかったからです。
それが発信しようと思い始めたのはnoteで小山さんの発信に関する記事を読んで今感じていること。思っていることを発信すればいい。正解とか不正解とかはどうでもよくて 今の自分がそう思っていること 感じていること。発信する理由はただそれだけで充分。
かなり意訳していますが笑。そういった内容を読んで 自分も発信する際に勇氣をもらいましたし 今も立ち返る場所となっています。
明日には考えが変化しているかも知れませんし 違うことを話しているかも知れません。
ただこうしたことを発信するようになって氣づいた一番の変化は自分ってこういうことを考えている人間なんだ。ということを再発見することが出来たことです。
外に向けて発信することで 自分自身の考えがより深く理解出来るようになりましたし 自分の考えていることに安心感を持つことが出来るようになってきました。それは自信とも微妙に違うような感覚です。
自分の意見を表明することへの安心感。
もっと言うと自分の考えに対して 自分を信じることが出来るようになってきたのかも知れません。そういった意味の自信なのかも知れませんね。
以前のわたしは自分の考えを自分で疑っていました。
こんな考えは間違っているのではないか。
おかしなことを考えているのではないだろうかと。
今は間違っていてもいい。
おかしくてもいい。
そう思えるようになってきました。
間違っていても おかしくても そう考えている自分がいること。
そういった自分のための居場所が自分の内側にあるように思います。
間違っていても おかしくてもいいのです。
ぜひ自分のアイデアを伝えてみてください。
わたしたちは自分と違う意見を正すために生まれてきた訳ではありません。
ただ自分が望む世界を創るために生まれてきたのだと思います。
違う意見はそのままにしておけば良いのです。
人それぞれの宇宙が拡がっているのですから。
追伸
なんてことを言いつつ わたしが正しい!と言い張ることもあるタカナリさんです笑。それも含めて自分の一部なのだと思います。もちろん自分の考えだけが正しいなんてことはありえな~いと思いますがそんな氣分のときもありますね。それもそれとして受け入れて生きていれば良いのだと思います。間違えたときはあとで謝りましょう笑。