募金エゴイズム
俺は募金をしたことがある。その団体に寄付をしたい旨を告げると書類が送られてきて、その中に銀行引き落としの用紙が含まれていた。募金の方法は銀行引き落としだった。俺はてっきり金融機関の窓口などで支払うものと思い込んでいたから、拍子抜けした。俺は直接募金をしたかったのだ。それは募金をしているという実感を得たかったから。それはただのエゴイズムということに気がついた瞬間だった。銀行引き落としでは募金をしている感覚を得られない。俺は募金という名のもとに、結局は自らが支払うことで優越感を満たしたかっただけなのだ。
ただ銀行から引き落とされるのは不本意だった。何だかただ搾取されているだけのような気がしたからだ。それは募金という名のもとに取られているだけのように感じた。それからは募金をしなくなった。人は俺のことを下衆だと言うだろう。しかしその気持ちがあったことは事実だ。少額だったから余計に良くなかったのかもしれない。これが高額だったら純粋なる心からの募金になったのかもしれない。安いものに愛着は湧きにくい。高いものには高かった分、愛着が湧く。募金もそうかもしれない。高額であればその分が自分の欲を刺激する。少額だとその刺激が少ないどころか、搾取されているようにすら感じるのかもしれない。こんな感覚を理解できる人はいないだろう。でもボランティアとは果たして何であろうか。そこに本当に純粋なる気持ちだけがあるのだろうか。いや、多少の高揚感はあるに違いない。今、自分は人の為、世間の為に役立っているという気持ち良さが。でも例えそれであったとしてもいい。何もやらないよりはマシかもしれない。大人になると良くないな。様々な下衆な人間を見てきた分、一人として純粋な人間など居ない事に気がつく。募金をする側もそうだが、お金を募っている側にだって何らかの思いがあるかもしれない。でも絶望はしていないし世の中に不貞腐れているわけでもない。それが人間であって世の中というものだと思っている。俺みたいな下衆な考えの奴が一人でも少なくなれば、世界はもっと平和になるでしょう。
でもね、こんな僕でもたまには急に無償で好意を差し上げたくなることもあるのです。そして差し上げたこともありました。その時ばかりは純粋。純粋はその時に急に訪れたのでした。よくわからんですね、善意ってやつぁ。