生成AI時代のクリエイティブについて
生成AIの素晴らしさについて語るとき、よく「もはや実写と見分けがつかない」や「人間を代替するか?」といった、人間とAIを対立軸に置いた比較が飛び交うが、本当にくだらないと思う。それは、AIに人間の代わりをさせたいという欲望が反映された結果にすぎない。しかし、生成AIは本来、人間の代替でも、人間性を毀損するものでもない。生成AIの正当な評価をくだすために、まずクリエイティビティとは何かを再定義する必要がある。
生成AIがもたらすクリエイティビティとは、単なる人間の再演ではなく、人間にはできないことを実現する力にある。たとえば、ブランド服を身につけた鳥人間、完全な球体が大量に浮遊する空間に立つ女性、あるいは夏に降る雪。現実には存在しえないものを可視化し、そこで生まれる現実と虚構の飛距離こそがクリエイティブと呼ばれるべきものだ。その意味で、生成AIの可能性はCGに似ている。CGでリアルな人間を代替しようと考えないのに、なぜAIに対してだけ代替を求めるのだろう?
現実に起こりうる現象や、リアルな人間で実現可能な事象はすでに演算可能な範囲にある。AIでそれらを生成してもそこに飛距離は生まれない。ましてや人間らしさやリアリティが入り込む余地もない。瞬時に生産された動画を発表するだけでは、人は感動しない。ここで思い出すのは、河原温の作品だ。彼の作品は一見何の変哲もない、ただ日付が書かれたキャンバスに過ぎない。しかし、それをシカゴ美術館に展示するために、河原温は自らの存在を「On Kawara」という匿名的な記号に変換し、長年にわたって世間から見れば無意味と思われる作業に従事した。美しい風景も魅力的なモチーフも存在しない。ただ抽象度の高い日付が描かれているだけ。だが、その作品は「自分の人生を消耗する」という形で、河原温自身の覚悟を表現し作品としての飛距離を生み出した。現在、彼の作品はシカゴ美術館に収蔵されている。
クリエイティビティは衰退しつつある。特に広告業界はその兆候が顕著だ。どうしようもなくなったクリエイティビティの代わりに、大谷翔平や橋本環奈のような「数字」を持つタレントが広告効果の担保として起用されている。ここにあるのは、極めて純粋な資本主義的取引だ。顧客は広告代理店から金で数字を買い、もはや広告の内容自体には関心を持たない。重要なのは、いかに無難で当たり障りない表現に収めるかだけだ。
広告業界は変革の時を迎えている。崩壊寸前でありながら、再生の兆しはまだ見えない。終焉を迎えた業界に再生はない。だからこそ、徹底的な自己否定と破壊が必要だ。もはや対症療法は通用しない。今こそ、加速主義的なアプローチを採用するべき時だ。既存の枠組みを壊し、新しい価値を見つけ出さなければならない。