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第30話 case10# YOU GIVE A NICE DAY TO ME

 それは買い求めた紙コップの中身も半分ほどに減った頃だ。ついにというべきか、近づいてくる人影は現れていた。ずいぶんの遅刻にどれほどの大物かと思わされる。しかしながらこちらから歩み寄るようなマネこそしはしない。のこりをちびりちびりと舐めながら、むしろ知らぬふりでただ待った。
 なら自動販売機へ辿り着いたその人物は、ずらり並んだ商品と向かい合う。だが選んで目をさ迷わせることはなかった。シチュエーションが要求するただのポーズに、この人物こそ待ち合わせの相手 SO WHAT を名乗るテロリストだ、と彼も確信する。向こうも同じらしい。ほかにめぼしい誰かがいるわけでもないのだからやがて、自動販売機を見つめていた目をジリリ、彼へと動かしていった。
 大物どころかその動作はいちいち固い。このままあえて知らぬフリを続けてやればおそらくこの人物は、見せぬよう隠し続けているプレッシャーに押しつぶされてしまうだろう。様子を見てやるのも一興だったが、浮かんだ光景は哀れさを誘ってやまず、イジワルはこの辺りにしておくか、と無関心を切り上げ彼は口を開くことにした。
「ついに船出の時が来ましたね」
 とたんドキリとするテロリストは、らしからぬ様子で身をすくめる。
「荷物に入れ忘れは?」
 言って足元、自動販売機の傍らに置いたキャメルのボストンバッグを目で示した。気づいて拾い上げたテロリストは、急ぎ中を確かめる。それきり強く小脇に抱え込んでみせた。
 その姿は見ていてあまりスマートなものではない。もう少しリラックスした方がいい。思うからこそ冷やかすような笑みはここでも彼の頬に浮かぶ。
「後で土産話を……。いや失礼、もう会うこともなかったっけ」
 消して紙コップの中身を一気に飲み干した。
「成功を祈ってますよ」
 投げ捨てきびすをかえす。すれ違いざま、その手でテロリストの肩を叩いてやった。だとして返事はない。向けられた、化け物にでも会ったようなまなざしだけが彼を見送る。
 どうやら間に合いそうだ。思うまま、背に彼は機へと靴先を繰り出していった。と、その尻ポケットで震えたのは携帯電話だ。
「ん、まだ残ってたかな」
 抜き出して操作すれば他愛もない。メールは一通、届いていた。
「まだ使う予定があったのにな」
 目を通して唇を尖らせる。
「ま、吹き飛んだなら仕方ないか」
 返信しつつ搭乗ゲートをくぐり抜ける。一面に張られたガラスの向こう、飛び立つ機の丸い鼻先は彼の視界へ映り込んでいた。

 夜が明けようとしている。
 どうやら勘は今でも健在らしい。
 日本ではついぞ働く機会がなかっただけだと乙部は振り返った。
 違和感はなはだしい脇腹をかばえば体は傾ぎ、そのままでICUの小さな窓をのぞきこむ。そこで物々しい機材に囲まれたヘディラ警部補は黒かった面持ちを白く一変させると、包帯に巻かれ静かに身を横たえていた。
 あの瞬間、乙部も例外なく爆風に巻かれ道路まで投げ出されていたが何も覚えていない、というのが実際だ。目を覚ませばここへ運び込まれた後となり、全てはまったくもって小男のせいとしか言いようがなかった。前にいた二人のおかげでケガはこの程度ですむと、むしろ調子が悪いのは耳の方ときている。それこそ寝込むような傷でなく、ここへ来たのも仕事のためなら、日が昇れば始まると知らされた現場検証に立ち会うことを自身の状況も含め、オフィスへ伝えていた。オフィスからは予定通りオスローへ三人が発ったことを、加えて予定外のコートジボワールへ二名、飛ぶことになったことを聞かされる。合間、百合草は無事で何よりだった、と投げてもいるが、言葉には労いよりも不手際を思い知らされたようで返せてはいない。
 思い返せる自分を冷静だとは思っている。だがやはり多動気味な今に動転しているフシは自覚せずにはおれなかった。
 帰るまでにもう一度、言葉を交わしておきたい。動かぬヘディラ警部補へ別れを告げる。着ていたシャツは切り捨てられ、今身に着けているのは病院のロゴが入った半袖のTシャツだけだ。ひるがえすと寒さに震えてホテルへ向かった。
 迎え入れたフロントマンは眠気の方が勝っていたらしく、一変した様子を一瞥しただけで伝言を預かっている、と一通の封筒を差し出している。待っていたと言えば闇雲だったが、とたん冷えていた気持ちが一思いに活気づくのを感じ取らずにはおれなかった。案の定、部屋で封を切ったそこには懐かしい旧友の字が並んでいる。
 あまり大っぴらにできないこの訪問だ。だからして前もって打診しておいたのは淡泊な数字の羅列だけで、いわば現地で使っていた同胞間の暗号だった。組み合わせでいくつかの意味を伝えることは出来るが、その羅列で宿泊先までもを明示することはできない。ただハボローネにある滞在先はそう多くなく、どうやら人が手榴弾に吹き飛ばされている間その旧友は探してまで訪れてくれた様子だった。
 読みにくい文字を追えば明日夕方、マーケットのカフェで会おう、とある。
 差出人は、ガロ・アガンソ。
 いい年をして、いまだ紛争地上空を飛んでいるらしい。そんなガロはナイロン・デッカードと直接、会ったことのある男でもあった。そしてそもそも支援者ロンにナイロン・デッカードの気配を感じ取ったのも、そんなガロから聞き及んだ言葉に由来している。

 この世界にはプロしかいないが、身近な素人を支援すれば後の金回りが違ってくる。

 ガロがナイロン・デッカードから聞いたというくだりは、確かそんな具合だったか。
 言わんとしていることはごく単純で、戦火を絶やさず弾と火薬を消耗させるには、火種を抱えた素人へ無償で銃器をあてがい、きっかけに始まった紛争をリピーターの宝庫とマーケットのすそ野を広げる、それだけだ。当時から業界で幅を利かせていたナイロン・デッカードゆえの資金力と、マーケットリサーチ、情報量がものを言う、それは彼、独特のやり方でもあった。
 だからしてロンがすなわちナイロン・デッカードである、という見方が安直なことは乙部も重々承知している。言えばIPアドレスが彼の拠点、南アフリカはボツワナと一致し、素人へのばら撒きが彼独特の手法に匹敵しているだけとも片付けることができた。そして組織も活動も旨味が見込めるほどまとまっていない SO WHAT が今後、彼の顧客としてリピーターになり得ることこそ考えづらくある。
 だが、ぜひとも確かめておきたかった。
 そう勘が囁く。
 そしてないがしろにできないことは、つい今しがた学習しなおしたところでもあった。
 軽く目を閉じて現場検証へ向かえば、ちょっとやそっとで片付くはずもない仕事を抱え込むことになるだろう。なら明日の夕方というガロとの待ち合わせは、ちょうどいいタイミングだと思えてならなかった。
 乙部は着替えたシャツの胸ポケットへ読み終えた封筒をねじ込む。
 数時間後、訪れた現場で乗りつけた車両から足を下ろした。
 あれほどの爆発が起きた後だとは思えない。現場は夜、眺めたそれとは縮尺すら違うようで、ひどく呑気と間延びして見えた。
 腰のグロッグを確かめる。吹き飛び半壊したあばら屋へ、ここまでハンドルを握ってくれた署員と共に入っていった。
 室内には火薬の炸裂跡が焼き付くと、爆風の広がりを模写してあれやこれやが同心円状に散在している。壁へは飛び散った手榴弾の外皮も点々と食い込み、漂う臭いが火事場にも似て異なる火薬臭さを放っていた。
 フラッシュライトの中に見た水瓶や椅子は粉砕されて跡形もなく、壁際のテーブルと乗っていたパソコン本体だけがその形を残している。だがそれも一瞬にして時を経たかのような廃品状態だ。専門家でもない乙部にさえ何の手がかりも得られそうにないと一目で知るありさまだった。
 そのただなかで、行き来する鑑識職員の一人を呼び止めた署員は乙部を紹介する。なら汚れた手袋を剥いで相手は、乙部へ手を差し出した。
「昨日は、眠れましたか?」
 髪の縮れ具合まで全てが丸で構成されたような面持ちだ。職員は責任者のセレツェ・モハエだと名乗り、乙部はその手を握って返す。
「強制的に、ずいぶんとね」
「あなたは運がよかった」
 解いたモハエは再びそこへ手袋をかぶせ、改めパソコンへ歩み寄っていった。
「三人には、本当に申し訳ないことをした」
 言わねばと思うが、他に言葉が見つからない。
「あなたも、間接的には我々も被害者だ。そのセリフは仕掛けた相手に吐かせるべきものです」
 回収に取り掛かる前、振り返ったモハエが投げる。
「探っても?」
 気遣いをこれ以上、毟り取りたくはない。乙部は問いかける。答えて返すその代わりだ。モハエは腰道具の中から引っ張り出した一対の手袋を乙部へ投げた。
「持ち去る場合は必ず確認を」
 空中で左右に分かれたそれをどうにか受け止め、乙部は中へ手を滑り込ませる。