スマブラではデデデ大王を使う
青い絵の具を塗った画用紙に、水をたっぷり含んだ白い絵の具を零したような空が広がる12月30日。
「なんだか書けなかったな」
本当は12月29日もエッセイを書くつもりだった。
だけど書けなかった。
「まぁ、『年末が好き』という文章を載せたから、年末くらいは休もうか」「忙しい日々の為に書いてるんだから、珍しく休める年末はしっかり休もうか」
そんなふうに自己正当化をして、気づけば1月8日だ。
「ぼちぼち書き始めないと、これは金輪際、書かなくなる感じZOY!」と心の中のデデデ大王が言う。なんで急にデデデ大王が出てくるのか。別に年末にスマブラをやってた訳じゃない。スマブラではもっぱらカービィ一択だ。
ただ、別に書いてないわけじゃない。
「今年一年を締めくくる素晴らしい作品を」だとか、「年の初めに相応しい素晴らしい作品を」などと思うと、このところ、「〜が好き」なんていうような卑近なテーマで書いている、道端に落ちてる糞を跨ぐがごとく低いハードルに慣れてしまった私にとっては、12月29日と1月5日のエッセイは、ビル数十階分に相当するようなとてつもなく高いハードル、もとい、とてつもなくデカい糞に感じてしまって、跨ぐに跨げずにいた。
今回の冒頭も書けなかった12月29日をフリにして、31日までに書けないかと書いた一文で、それでも書けなかったから、1月5日用にまたこれを使い回そうとしたものとなっている。そのため、なんとかデカい糞を飛び越えようと、名文めいた書き出しを探っていることが窺える。「どんなに頑張っても君はクソデカい糞の前でクソたじろぐことになるだけだZOY!」と心の中のデデデがシリアスな顔で呟く。
というわけで、青い絵の具だとか、水をたっぷり含んだ白い絵の具だとかのたまっていた画用紙も、もはや違う具が原材料の黄土色にまみれた画用紙になってしまったので、逆にハードルが下がって書きやすくなった。『ドグラ・マグラ』も書き出しに悩んだ結果あれにすることで、逆に書きたいことが書けたのかもしれない。
とはいえ、なんのプランもなく、半ば自暴自棄に書き出してしまったため、何を書けば「面白い」と思えるか分からない。
実際、悩んでいる。
「最近のエッセイ、つまらなくないか?」
年末年始、そんな疑念が大脳皮質の辺りをかすめていくから、大学生の頃に書いていたものを読み返してみた。
すると、やはり昔の方が読めるなと思った。
自分なりに分析してみよう。
「つまらない」と思う理由は3つある気がする。
まずひとつ目は「茶々が少ない」である。
別に今も昔も暗い。概ね「人間向いてない」というような文章を今も昔も変わらぬ味で提供している。そのため、暗すぎて読めないなんてことはない気がする。
しかし、昔に比べて今は「茶々」が少ない気がする。浅井三姉妹の長女ではない。「茶々を入れる」の「茶々」である。
なんだか大学生時代は、結局今思えば若い悩みだから、どこか楽観的というか、いきすぎた主観的が回り回って客観的に悩みを見えれていた気がする。だから、自嘲的に、冷笑的に、それ以上に、何をどうやったってこれは黒歴史になるにきまってんだから、と腹を括って余計なことを書いていた。
今はどうだろう。
とにかく暗い。
もうこれはしょうがないんだけども、普通にガチ鬱の中で書いていたりするから沖縄の話のような、ダースベイダーが落ちたダークサイドよりも少し手前の暗黒面の中を回転落下しているようなエッセイが生まれてしまう。ギリギリ、パダワン殺しはしてないようなエッセイが生まれてしまう。
さすがにあの頃のアナキンに「もうちょっと茶々いれてみませんか?」「ユーモア足りてませんよ?」なんて言えるクローンは居なかったはずだ。
だけど、今は正直あの頃に比べれば、色々自分の中で折り合いをつけたり、括る腹をみつけたりして、心は凪いでいる。
であるのならば、多少の明るさというか、読みやすさの一助となるような工夫を考えようじゃないかと、そう思う。
そして、2つ目は「本当に書きたいことが書けてない」である。
「浅井三姉妹じゃない方の茶々」とか黒歴史確定のクソユーモアで、それこそお茶を濁していたのに、急に臓物にドスを突き立ててみた。
たしかにそうである。
本当に書きたいことが書けてない。
本当に書きたいことはある。
ただ、書けないことが多い。
それは「このエッセイを書くにあたって決めていることの1つ、『あんまり今の会社や特定の人の具体的な悪口は書かない』という規約に違反してしまうこと」だったり、「今まさに現在進行形で絶賛シンキングなことだから、オチまで書ける自信が無いこと」だったり、「『そもそも好きってなんだっけ?』となっているような人間だから、『何に悩んでいてこんなに辛いんだっけ?』という、あの時、初めて因数分解というものを前にしてもはや『分からないことが分からない』という次元に迷い込んでしまった高校1年生の私と同じような状態」だったりするから、あまり私の本質を書けてないのだと思う。
茶々なんてより、よっぽどこれが「つまらない」の本質である気がする。「茶々の文章をちゃんと読んでくれた人には本当に申し訳無いZOY!」と心の中のデデデが言っている。本当になんでデデデ大王なんだろう。
だけど、書きながら省みてしまったが、「お前の作ったその規約、沖縄の話とか野良猫が好きだって話で割と違反してるZOY!だけど違反してる奴の方がやっぱり比較的好きな文章だったZOY!」とか「たしかに一度出した答えが歳を経て『やっぱ違くね?』とはなることはあったけど、お前、大学時代は言語化出来ない現在進行形の悩みを、この場を使って時間かけて考えて、その時なりの答えを出してたZOY!」とか「『何に悩んでるか分からないけど、辛い、だけど何に悩んでるか分からないし、考える時間もないから、とりあえず放っておくか』でお前はガチ鬱になったんだZOY!『因数分解出来なくても死なない』であの時は数学が出来ない自分を正当化したかもしれないけど、今回は出来ないと死ぬZOY!」と心の中のデデデは言っている。プププランドを治めてるだけあって、割と真を突いたことを言うもんだな。
たしかにデデデの言うように、「本当に書きたいこと」を逃げずに、探して、考えて、今の自分なりにでいいから、書きたい。
書きたいが、時間が無い。
3つ目の理由は「時間が無い」だ。
シンプルにこのエッセイを書くために充てられる時間がない。
年末にスペシャルドラマ『グランメゾン東京』を観た。
そもそも私は木村拓哉さんの大ファンで、私は木村拓哉さん、もとい拓哉さん(私は個人的に「小島さん」のイントネーションで「拓哉さん」と呼んでいる)のドラマはほぼほぼ見ており、その中でも様々な経験と年齢を経た近年の拓哉さんのドラマでは不動の1位であるのが『グランメゾン東京』であって、そのスペシャルドラマと劇場版となれば、見ないわけが無いというのが「これまでのあらすじ」なのだが、そんなスペシャルドラマ『グランメゾン東京』で印象的なシーンがあった。ネタバレも含んでいるため、『グランメゾン東京』をめちゃくちゃ楽しみにしているのにまだ見てない人は、いますぐこんな黄土色の画用紙は捨てて、さっさとU-NEXTまたはTVerで。もし見る予定がない人や、『グランメゾン東京』より黄土色の画用紙をしがみたいという奇特な人だけこのまま読んで欲しい。個人的には普通にこのエッセイ読むよりはあっち見た方が有意義だと思う。
ドラマ『グランメゾン東京』において『ドラえもん』にとっての「のび太くん」的立ち位置の実質的主人公、早見倫子(鈴木京香さん)が経営するレストラン『グランメゾン東京』はコロナが原因で経営不振に陥り、食品系大企業と契約を結ぶことで資金援助をしてもらうことに。しかしその見返りに、倫子の経歴と美貌を活かしてメディア活動をさせられたり、コラボ商品の開発をさせられたりした結果、新メニューや店の味の維持が出来なくなり、より経営不振になっていく、というところから物語は始まる。そんな倫子を見て、倫子の右腕的存在の京野陸太郎(沢村一樹さん)はその食品系大企業の社長、明石壮介(北村一輝さん)の元を訪れ、倫子を料理に専念させて欲しいと直談判をする。余談だが「一樹」vs「一輝」対決だなぁと思ったが、そんなことは置いておいて、そこでこんな台詞が出てくる。
壮介「私今メール書いてるじゃないですか。1通1分で書いてますけど、たとえば1時間掛ければもっといい文章が書ける思うんです。時間をかけても大して変わりません」
まぁ、たしかに、と一瞬思ってしまう台詞だが、どこか納得したくない私がいる。しかし、そんな私に、物語のラストで天才料理人、尾花夏樹(「小島さん」のイントネーションで拓哉さん)はこう言う。
尾花「ひとつの皿に、一滴のソースに莫大な手間とコストをかける。普通に考えたら本当馬鹿ですよ。でもそれがめちゃくちゃ面白いからやってるんですよね。コストとタイムパフォーマンスに必死なあなたには分からないでしょうけど」
どれだけ料理に時間をかけても、そんなに味は変わらんだろう、食べてしまえば同じだろうという意見に対して、それでもその僅かな差を追究するのが面白いからやってんだ、だから、ごちゃごちゃ干渉してくんな、ということを言っている訳だが、これがとても心に残った。
相手が持ち出したタイパとコスパの土俵に乗らずに、そのタイパとコスパの悪さを具体的な何かで正当化するわけではなく、「俺たちがやりたいからやってるんだ」という自由意志のみを堅持し、別に論破するわけでもなく、「あなたの意見も分かりますが、相容れないので離れましょう」という台詞に非常に痺れた。
たしかに、1分で書くことは出来なくても、1時間で書いた文章と、3時間や半日、数日、なんなら数ヶ月かけて書いた文章、同じテーマで書かれていたら、読んでも同じ感想、同じ読後感かもしれない。だけど、やっぱりそれでも私は時間をかけたい。冷凍食品と、『グランメゾン東京』で提供しているメニューに数万単位で金額の差が出るように、それでも食ったら同じ糞になるように、どれだけ時間をかけても、たとえその感想や読後感が時間をかけなかったものとほとんど同じでも、その僅かな差をより良くしたいと思ってしまう。より時間をかけたいと思ってしまう。そしてなにより、その僅かな差が大きな差な気がしてしまう。
もちろんミシュランの星を取るような高級レストランの逸品と、デカい糞の前で長らくたじろいだせいで結果的に糞まみれになってしまったために、定期的に文章の中で「糞」のヘンゼルとグレーテルをやってしまっているエッセイは格が違うので、同列には語れないが、やっぱり時間をかけたい。
今日の文章や、沖縄の文章、野良猫の文章は比較的時間をかけて書いている。今日の文章は糞やら、デデデ大王やらで、ほとんどコロコロコミックのような内容だが、やっぱり心に余裕を持って読みやすい工夫をするにしても、「本当に書きたいこと」を探して、考えて、書くにしても、拙筆であるが故に時間は割と必要だ。
「駄文製造マシーンの癖しやがって調子こいてんじゃねぇぞ」と言われてしまうかもしれないが、私はいざ書くとなると、まとまった時間が必要なタイプで、移動時間や隙間時間でどうこうするのは少し難しい。そのため、当分はどうしようもないので、クリティカルな対策は講じられない。ただ、どんなに忙しくてもまとまった時間を頑張って作ろうと思う。ガチ鬱にならないためにやってるのに、睡眠時間を削るのはもともこもない。なので、寝る前の3時間や、休日の午前中など、頑張って時間を作ろうと思う。
「頑張ったらきっといい事あるZOY!」と心の中のデデデ大王も言っている。
これからスマブラではデデデ大王を使おうと思う。