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やてみた感想おばけ

感想言いたいおばけになっちゃった!

男性ブランコのコントライブ「やってみたいことがあるのだけれど」を観ました。京都府立文化芸術会館で行われた千穐楽のお昼公演に行きましたよ。これを書いている今は当日の夜ですが、普通にめっちゃお酒吞んでるので酔ってます。つまり、こんな文章なんて適当に流してくださいということですからね。そういう、言外の意図を読んでくださいね。頼みましたよ。あ、でももう言葉にしてるから言外じゃないか。言内か。げんない、ゲンナイ智則。……ほらね、酔ってます。

!!!! Spoiler alert !!!!
まあおわかりとは思いますが、めちゃくちゃネタバレしてます。あとパンフの内容もマジでちょっぴりだけどほのめかしてるので、そいうの嫌!!!!!って方は読まないでくださいな。

ネタの感想を書いてみたのだけれど

  • オープニングアクト漫才

アクトスペースにサンパチが立ってる。袖から出てきた男性ブランコの2人もアクトスペースに。この段階でもうすでにマイクも含めてお2人がアクトスペースにいるのが肝ですね。「やってみたいことがあるのだけれど」という、コント漫才でよく見る流れでタイトル回収してコントに入っていく。よくできてるな~~

  • 観光案内 観光案内所の人(野宮)と亮太

ほっこり。「自分が考えて、考え抜いて決断したことを子供のせいにする親なんていない」というセリフが良い。おそらくもうこの時点で野宮さんはギターを辞めるつもりでいて、今日あったことも忘れてしまうからギターを辞めるという未来はもう変えられないと悟って、それもこれも全部受け入れたうえでこのセリフが出てくるあたたかさが男性ブランコらしいと思った

  • 音楽家 ミュージシャン(川松)とアクマ

生活って大変だよね。全て遡ってなくなったことになるのは、辛い。死ぬことよりもずっと辛い。存在がなかったことになる辛さというのは、このライブのテーマにも関わるな~と思いました。次々生まれては消えていくコントキャラたちは「いなくなったこと」になっていないかな、どうかな。おばけさんたちは、いずれ「いなかったこと」になっちゃうのかな。寂しいな
話の後半で、このアクマが「消費者じゅみょ融」のブラックリストに載っちゃってる理由がなんとなく察せちゃうのもちょっぴり切ない。人間らしいいいやつだよね、アクマも川松も。平井さんの書くキャラクターらしくて大好き

  • おっちゃん せいちゃんとかっちゃん

男性ブランコの十八番(?)実は幽霊だったパターン。浦井さんってどうして死者が似合うんだろう。すごい役者だと思う。せいちゃんの衣装の一部がメッシュ素材かなにかでシースルーなのが凝っててよかった。場面転換をセリフでつなぎながら衣装替えする演出は『授業参観』でも使われてましたね。男ブラさんのコントの、小道具やセットが少ないミニマムな雰囲気が好きです
小さな頃からお互いがお互いを頼りにしながら生きてきた2人なんだな、と思うと本当にほっこり。ブラザーフッド的な。そして中和、面白すぎて息できんくなるかと思った(隣の人に気を遣いつつ笑うの、結構むずい。特に私ゲラだし引き笑いしちゃうし)

  • 研究者 久保くんと博士

ちょっと一番好きなコントかも。ちゅうしゅっちゃん!な博士と腹の底がどす黒い久保くん。抽出っちゃんを恐怖を抽出する兵器として売り捌き巨万の富を得ようとする久保くん。最初はこいつがやばいのか?と思うけど、抽出っちゃんに抽出されたあとの久保くんに「そうかぁ、君はこれで純粋な人間になれたんだ~」と言ったときの博士の演技がすごかった。多分この単独の全コントで一番ヤバかった。久保くんが理解できる悪の範疇にいるとしたら、博士は狂気の世界の住人という感じ。前半のちょっと天然っぽい可愛らしい雰囲気が効いてるし、なんなら全く地続きにこの人格があるという説得力と恐ろしさがあった。何が怖いって、抽出されて意思や感情といったものがない「純粋な」人間になった久保くんに向かって、博士はあの前半の調子のままペラペラと喋り続けていたこと。博士にとって純粋な人間になるということはどういう意味を持つんでしょうか。「純粋なものに憧れる」博士の狂気が可笑しくて怖い、サイコホラー風味の良いコントだった

  • 絵描き 絵描きの善さんとそのパトロンの息子(敬太)

善さんの声がデカくてよかった(赤ちゃんの感想?)。浦井さんがのびのびと変な人を演じているコント、かなり好き。感覚としてはラバーガールの飛永さんがボケてるコントが好きな感覚に似ている。それはそれとして。ガワの部分を取り去ったら、やりたいことがなんだってできる。自由になれる。お前はお前でしか、あり得ない。これも大事なテーマですよね。立場とか属性とか、そういったガワを取り去った人間の核の部分は、「やりたいこと」を持った自由な存在だということ。いるではなく「在る」ということ
あとこのコントで好きなのは、善さんから絵をもらった敬太が「持ってるよ、ずっと」と言ったのに対して善さんが「そうだったらいいなあぐらいだ、我々絵描きからしたら」と返したところ。無常観というか。実際我々も「一生好きです!」と言ったものを本当に一生好きでいる人って少ないと思うし。人間というのはすぐに飽きたり面倒になったりする生き物だから。ひとたび創作者の手を離れた作品は、もう作者のものではなく受け手のものになる。どれだけ良いものでも、人はいずれその感動を忘れてしまう。最近もう色んなコンテンツが供給過多で、受け取るだけであっぷあっぷしてる私にとっては味わい深いシーンだった

  • 服屋 記憶をなくした男と服屋

「服は記憶」。纏うことでキャラの記憶がよみがえる。どんどん色んなキャラたちが出てきて、コント同士の境が曖昧になっていく。衣装さえ纏えば浦井さんであっても平井さんが演じたキャラになる(=浦井と平井がわからなくなる)。纏って消えて現れて。そうこうしている内にオープニングの漫才へ戻っていく(漫才とコントの境界が分からなくなる)。服を着るという、自分と自分以外とに境界線を引くような行為が、いろんなものの境が朧げになっていく演出として効いているのがひねりがあって面白かった(パンフを読むとよりそんな風に思いました)。このライブにおいてはものすごい重要な意味を持つコントだけど、ライブのダイジェストっぽいボケで大衆的な楽しさもあってよかった。それにしても13年間もの記憶がない男の人、気の毒。そういえば男ブラさんの芸歴も13年だったような

  • エピローグ漫才

服屋のコントからほぼシームレスに入るエピローグ。最初のコント漫才からどんどん劇中劇に潜っていって、ついには最後のコントでキャラも世界観もぐちゃぐちゃになったところでオープニングアクトの漫才の続きに収束していく。途中浦井さんの「ほら、お客さんも集まってんねんから」というセリフで客席の照明がついて、観客自身もこのコント『漫才』の演者であると明らかにされる(演者と客の境界がわからなくなる)のが面白い演出だった。そして二人のやってみたいことは続く

深読みオタクおばけがニチャついている(実体もないのに!)

  • 纏って消えて現れて おばけじゃないよコントだよ

正直もうこのコピーだけで大優勝というか、「詩」として美しい言葉だと思います。たしかにおばけとコントって似ている。それにコントキャラ自体もおばけみたいな存在だよなと思う。基本使い捨てだし、生みの親の芸人自身から忘れられることすらあるし。キャラクターの死は人に忘れられたときに訪れるという言葉もあるように、今こうしている間にもいろんなキャラたちがおばけになっちゃってるのかな、なんて思いました。いなかったことになるのは、死ぬよりもずっと辛い。そんなおばけさんたちが沢山いるのかしら

  • コント漫才の中でどんどんコントインしていく構造

そもそも現代漫才(特に競技漫才)って、演者や観客も漫才に台本あることをわかっててやってる・見てるじゃないですか。それを逆手に取ったじゃないですけど、コントの導入として漫才を使う、というよりはライブ自体が一個のコント作品になるように作っていたのが面白かった。人前で何か作品を披露するということ自体が演劇的で、だからこそオープニングとエピローグの漫才はどちらもアクトスペースで行われていたわけですよね。あくまでもこのライブは「コントライブ」であるということなんだと思います
(漫才の演劇性を逆手に取ったコントで言うと、シソンヌの『別れ』を思い出した。これもとても良いコントなので是非)

  • 幕間がない

トニフラさんが出てきてからはけるまで、ぜったいに音楽やセリフが途切れない。これによってライブ自体が1つの作品であることを強く印象付けているように感じた。転換中の音楽は幕間映像や幕間音楽ではなく、そもそも幕間がないという構造。男性ブランコ2人が着替えている時間も含めて1つの作品であるという点が「Denki Ifuku Yé-Yé」に近い。DIYでいうと、劇中劇(コントインコント)の構成自体もDIYでやってた『コントを作ろう』と近い。オタクにちゃつきポイントが貯まりますね(最悪のポイント)

  • 「やってみたいことがあるんですよ」ではなく「やってみたいことがあるのだけれど」であることの意味

平井さん節の効いた文語調で少し引っ掛かりのある言葉遣いで、ある種コントや漫才のセリフとしては浮いていたんだけど、このセリフをきっかけに別のコントに潜っていくというのが呪術的な言葉の使い方だと思った。こういう言葉は形式が大事だから、形を変えないで同じように言うというところが儀式っぽい。儀式には呪言が必要ですよね、とパンフを読んで思うなど

  • 境界線

布を纏うということは境界線を引くということだと思います。目には見えないおばけも、布を纏えば存在を認識することができる。認識するということは区別すること(ちなみに、近代言語学の父フェルディナン・ド・ソシュールは、語の意味は他の語との差異によって生まれると言いました。言葉の意味を認識するとは、それが他の語とどう違うのかを認識するということだと言い換えれるでしょう)。ところがこのライブでは、布を纏うごとにその境界線がどんどん朧げになっていく。そう、まるで人と死者の間で漂うおばけのように。舞台と現実世界、漫才とコント、客と演者、演者と演者、様々な境界線がなくなっていった先に、エピローグの漫才が待っている。「帰る頃には浦井か平井か分からなくなってる」コンビらしい、ひねりの効いた面白い構造だと思いました

  • 「やってみたい」「おばけ」「纏う」という3つのテーマ

このライブでは「やってみたいことがあるのだけれど」と言う魔法の言葉で生まれたキャラクターたちの抜け殻が、舞台上にずっと展示してある。その抜け殻=衣装を纏ってキャラクターになってコントをする。衣装はキャラを認識するためのアイコンでありながら、衣装自体にキャラとしての記憶が宿っている。「やってみたいこと」に衣装という布をかぶせると、キャラクターが見えるようになる。まるでおばけみたいに。こうやって3つのテーマがそれぞれ関連しあいながら、コントライブを束ねて1つの作品になっているというのが、本当に美しいと思った。纏って消えて現れて。なんて素敵なライブだったんだ…と夢見心地です

感想言いたいおばけ、もうそろそろ成仏しそうなのだけれど

こんな風にぐちゃぐちゃ書き連ねてきたけど、とっても素敵な時間を過ごしたなぁと思います。会場中のおばけさんたち、いたるところに散りばめられたコントに出てくるあれやこれや。スタッフさんたちもお優しくて、すごくよかった。
あと忘れちゃならねえトニー・フランクさん。すごすぎます。出ずっぱりだし結構重要なシーンあるし、全部名曲だし。劇伴はカロリーがすごい。ポップな方のおばけになれたハロルドおじさんの歌、「だからもうわしを忘れてな」というところで歌声も相まってぐっときてしまいました。
チーム男性ブランコの粋といいますか、今出せる全力を見たという気がします。コントの内容や演技はさることながら、パンフも最高、グッズ最高、衣装も最高、音響、照明、舞台の作り、裏方から表舞台まで全部最高。視線の行き届いた細やかで丁寧な仕事というのは、人の心に訴える力を持っているものだと改めて感じました。みなさま本当に本当にお疲れ様でした。

感想を言いたいという未練を晴らし、ふよふよと成仏していったおばけなのでした!


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