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#小説 記事まとめ

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2019年11月の記事一覧

『漂流』(短編小説)

   私は「文庫本」である。    背中には値札シールの剥がし跡が残っている。そう、私はブックオンの百円コーナーで売られていた「ロマンチな接吻」というベタなタイトルの小説である。そんな私は今、なぜかチベットのポタラ宮にいる。なぜ、ブックオンの百円コーナーにいた私がチベットにいるのか。これから始まる話は、私がこの地に辿り着くまでの壮大な物語を記したものだ。 *    私は新宿の大型書店で初めて日の目に晒された。初版ではなく中途半端な第3版として「話題作コーナー」に平積みに

【短編】ヨハンとアデルの朝

早朝の広場で青果店の店主が腰を抜かしたとき、ヨハンとアデルはまだ目を覚ましていなかった。 青果店の店主は自分の店に向かっている途中だった。広場を横切って、アパートがひんやりと湿った影を落とす細い道を抜け、大通りを渡ったところに彼の店はあった。軒先に染みだらけの赤い幌が張ってある、街でいちばん古い青果店だった。その老人は、広場の中心を示す大きな楓の木に向かい合う形で、長椅子に浅く腰掛け、黒いステッキを傍らに、曲がった身体をぐったりと背もたれに寄りかからせていた。不審に思った店