トラウマ

トラウマはどうしたら克服できるだろうか
最も普遍なのは時間だ
とにかく時が過ぎ、すぎるうちに鮮烈だった感覚が薄れ大きな気持ちも遠ざかっていく
しかしそれまでがとにかく生き地獄
少しでも薄めて薄めて楽になれないか
楽をしないことが罪滅ぼしとなり克服に近づくのかもしれないが、それが辛いって言ってんの
じゃーどうしようか

一つ一つ解いてみよう
観察してじっくり見つめ合う
こんがらがりを一つ一つ細かく見て、上から整えていく
それこそ辛いものだけど、
今ならやれそうな気がするので、結局時間なのであるが、
そのひとつを解く試みをやってみようと思う


昔から人に嫌われるのが怖かった

怖いのなんてみんなそうだし稀に人になんて思われようが自分は自分という強さを持った人もいるが、みんなどこかでこの恐怖とは戦っていることだと思う

悪口を言われないように集まりには常に最後まで顔を出していたり、差し入れをして好印象を狙ってみたり、人当たりのいい人格を意識してみたり、まず嫌われない性格の研究をしてみたり、それでも合わないだろう人を見抜ける緊張を持ち続けたり、キャラクターを外す言動を控えたり、見た通りの人間であるように努めたり、外見ありきでの事だが人に不快を与えないことを第一義に生きてきた

なんで

なんでそんなに不安になったのか

挙げたことは、こうしときゃ大丈夫でしょうなんてものではなくて、最低限の、ほんとに最低限のお伺いである

幼稚園生のころ、人と話すのが苦手だった
言葉を覚えるのが遅く、しかし認知は強く、体の中にはあるのに表出できないもどかしさで悶々としていた
主張が弱く、当然おともだちからは遊びの仲間に入れてもらえず、会話の通訳に双子の姉が必要だった
しかし大人とはとにかく楽しくおしゃべりをしていた記憶がある
相手が自分を尊重して表現されるまで待ってくれるからだ
一生懸命話せば聞いてくれて、しかもその言いたいことを理解してくれる
ひとつの成功体験として、話すことが大好きになった

この頃に関わった大人たちにはには感謝してもしきれない


小学生になった
字が読めるようになり世界が広がった
表現する方法を取得し、おしゃべり期に突入する
大人たちととにかくしゃべった
しゃべってしゃべって、色んな感覚を獲得していった
その時ふと気がついた
大人たちは自分よりも頭がいい、そして個人の心がある、と
物心がついた
個人の心があるということは自分のマシンガンのようなお子さまトークに「楽しい」「つまらない」という感想をさらに持っているということ
せっかく話を聞いてくれるなら楽しませたい
笑って欲しい
おこがましくも幸せな時間であって欲しい
一方的なおしゃべりではなく会話がしたい
相手の考えを知りたい
そんな欲求が生まれてきた
まだまだ自分のおしゃべりを優先させてしまうけれど、会話を強く意識した段階だった
高学年に向かっていく頃には同級生との会話に諦めが出始める
自分の知っていることは当たり前に知っている大人との会話に慣れれば、そりゃあつまらない
つまらないと思うと、見下し始める
これがいけない
コミュニケーションを取るのにらしい振る舞いができずたくさんの失敗を重ねた
自分が同級生と話していてつまらないということは、自分も大人たちにとってはつまらないのではないか、という呪いが、ひとつはめられた

中学生になり、周りもどんどん変わってくる
そのままの自分でいたいのに、社会をいやでも意識する
そして生まれ育った環境の閉鎖感
小さい頃からの習い事で普通の中学生よりもはるかに多くのコミュニティを持っていたが、それでも世界は狭かった
逆にどっちつかず
あちらに行ってもこちらに来ても「向こうの人」
深くホームだと言える場所がないふわふわとした状態で、みんなに自分の全てを知って欲しいと思いながら悶々と過ごす
自分の全ての活動を知っているのは母だが、現場にいて中身を知っている訳では無い
それぞれの世界で、別の世界を持っている自覚と顔の使い分けに戸惑いながら上手く処理できていなかったのだろうか
そのくせ切り捨てることが出来ないから、蓄積していく

引越しや様々な理由から、中学の同級生が一人もいない高校に進学した
1からの人間関係構築
小中続けた習い事を辞め、空っぽであった
自分を語るものがなにもない
楽ではあったが、なんにもない、なんにもなかった
そんな時また学校とは別の世界を持ち始める
正確には学校内なのだが、すっぽり抜けた穴にはしっかり別のものが埋まり、生き生きとしていたと思う
しかし、クラスで1回コミュニケーションに失敗した
それまではとても楽しくいたのだが、どうにもはっちゃける方では無い自分と、目立った方が楽しい場
上手く回避して自分のままで居られる立ち回りができていた矢先

スキンシップが苦手だ

ある時他愛のないボディタッチに過反応し、一本背負いをしてしまった

振り返れば笑ってしまうシチュエーションだが、当時は必死だった

それからである

どうにも人と話すのが怖い

間違えてしまうんじゃないか
失敗してしまうのではないか

それまでのコミュニケーションを、間違えても失敗しても全てを包む許容のある相手としかしてこなかったから

初めて怖いと思った

それまでも同輩とコミュニケーションをとる場面は沢山あった
自他との違い、集団で生きる空気を学ぶ場面もたくさんあった
けれどなにか共通の目標や目的がある仲間だった

大学生になった
目的が一緒では無い、気が合う集まりでもない人間が一緒の空間にいることが減った
常に同じ様な画角で生きる人々がまわりには増えていった
随分と生きるのが楽になった
やっといい環境にいるのだろう
それでも呪いはかかっている
嫌われたくないからシールドを張る

シールドを張っていないと思わせるようなシールドを張る

張っている人には、張らないタイプだよねと言われる

張ってない人には、壁があると言われる

人との間には必ず壁があり、その壁を作っていることを知らせられることが自分の心を許した証であり愛情表現なのだ




一つ一つ枷をはめて生きてきた積み重ねが呪いとなっている

学びとも呪縛ともなる積み重ねを、いいように使えれば解けるのではないか

どうなりたいと思っているのか

今のままでいいと思っているんだと思う

始まりは楽しませること、幸せになることなのだから

それでももっと生きやすくなりたい
もっともっと幸せになりたいと求めて生きている

奥底で密かに求め続けてきた
自分の全てを理解する人を
そんな人など存在しえないのだから

自分が自分にとってそんな人になれるようにならなくちゃいけない

幸いなことに悪い積み重ねばかりじゃない
楽しませようという努力はちゃんと個性に昇華できている
さあ、怖がらないで
大丈夫だ
大丈夫なんだよ

自分を追い求めてけ

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