大人とか、子どもとか、たりないとか
22歳になる。
22歳っていう歳は大人の階段の一歩目。
これまで学生と呼ばれていたのに、社会人と呼ばれるようになる歳。
社会人なんてまだまだ先の話じゃん。
社会人の先輩たちが話してくれる仕事の話が違う世界のことのように思えたのは数年前。
その時には小さくしか聞こえなかった社会人の足音は、今では確かに耳のすぐそばまで迫ってきている。
友達との飲み会に社会人が混ざるようになった。
小学校から仲いい子が「午前中は内定先の研修なんだ」って言うようになった。
就活という言葉をリアルに聞くようになった。
そういう事実の連続が、社会人の足音を一層大きくする。ドンドンドンと僕の鼓膜を揺らすのだ。
耳をふさぎたくなるくらいの大きな音で。
僕は大人になれるのだろうか。
小学1年生のときに6年生が廊下を走っているのを見て衝撃を受けたことを今でも覚えている。階段を飛び降りて僕の前を力強く走り抜けていく6年生。僕はその体の大きさと力強さに驚き、6年生って“大人”なんだなって思った。僕も6年生になったらこんな“大人”になれるのだろうかと憧れた。
しかし、なってみた6年生は“大人”ではなかった。むしろ、子どもだった。
6年生のハロウィンの日、となりのクラスに女のALTがサプライズでかつらを被ってきた。それを面白がった僕は、授業前に生徒と戯れているALTの背後から近づき、ひょいっとかつらを取るいたずらをした。
そしたらALTは号泣。よく話を聞くと、彼女はその長い髪の毛をかつらの中へまとめるのに30分かかったんだという。ALTが泣いたことにより、授業はできなくなり、僕は担任と隣のクラスの担任から失神するんじゃないかと思うくらい怒られた。結局、授業の時間を潰したとして、自分のクラスととなりのクラスに謝罪をした。
中学生になればと思ったが、中学生でも子どもだった。
中学2年生の時、班でじゃんけんをして、負けた人がご飯の食器を全部さげるというゲームをした。結果、僕は負けてしまい、みんなのおぼんを片付けるはめになった。
それを見た、他の班の奴が僕の運んでるおぼんの上に更に食器を重ねてきた。断れなかった僕はそれを受け入れて、そしたら他の人たちもどんどんおぼんの上に食器を重ねっていった。高く積みあがった食器のタワーは不安定になり、遂に一番上に乗っていたおぼんとフォークが滑り落ち、教室の窓をぬけ、一階の玄関付近に落下した。当然のように僕はこっぴどく怒られた。
結局いくつになっても子どものままだった。
大人になれるかな、なれるかなとずっと思っていたけど、中身はそんなに変わらない。
たりないものがたくさんある。思い描く理想の自分にはなれていない。隣の芝生はずっと青い。ないものだらけなのにずっとないものねだり。
たくさんの友人と楽しそうに写ってる友達の投稿見ていいなって思ったり
じぶんのやりたいことに向かって突き進んでる人見て眩しく思ったり
新しいプロジェクトに参加してみようと思うんだという友達の報告を受けて、自分もなにかやらねばと焦ったり。
足りてないことを受け入れたいと思いながら、受け入れられない日々。
余裕という言葉を忘れたような僕の性格。
ありのままの僕でいいじゃん。
そんな言葉もささやくのに、たりないことに対する焦りの波の音がそれをかき消す。
気がついたら焦ってばかりいる自分に嫌になる。
このまえウッドデッキを歩く尺取虫を見た。
その尺取虫はウッドデッキの木の板と木の板の間の溝のすぐそばの木の縁を歩いていた。彼は何度か隣の木の板に移ろうと体を伸ばした。しかし、勇気がないのか体の長さが足りないのかなかなか向こう側へとは行けなかった。
勇気を出して向こう側へ行けば世界が広がるかもしれないのにって僕は思った。しかし、尺取虫はそれをあきらめて、ただまっすぐに木の板の縁を歩き続けた。そうやってずっと歩き続けた尺取虫だったが、ある時おじさんの大きな足が上をかすめた。「危ない!」と僕は息をのんだ。しかし、尺取虫は木の板の縁を歩いていたおかげで板と板の間の隙間に体を滑らせて難を逃れてた。
ただ単調でつまらないと思っていた木の板の縁を歩き続けることもいいことあるんだと気づかされた。
いま、ぼくが歩いているところも悪いことばかりだろうか。たりないものばかりに目をやって、歩き続ける道は歩いてて楽しいだろうか。
せっかく歩く道、楽しく歩きたくない?
いいことたくさん見つけたくない?
十字路で迷っている若い僕にこの道歩いたらいいことあるから歩いてみって言えるようになりたくない?
どこに向かう道かわからないけど、今を楽しく歩いたらきっと明るいところに辿り着ける。
そうやって今歩いてるところを楽しめる大人に僕はなりたい。
22歳のぼくはそういう大人になれるかな。