文通(付録)
付録
『山内得立によれば、この世界はさまざまな「差異」に満ちている。彼はその差異を、対立や矛盾ではなく、どこまでも差異としてとらえる立場をとろうとする。彼のイメージする現象学は、世界を、「差異」の相のもとに眺める理論的態度を要請する考え方である。世界に存在する事物Aとそれ以外のものの関係を、仮にAと非A(A')として見れば、非AとはAではないもの、Aのあり方を有しないものとなるから、両者はたがいに対立する。対立は、そのゆきつく先に両立不可能な関係、「矛盾」を想定する。AとA以外のものの関係を矛盾ととらえ、両者の相克を描き出す論理が、弁証法であった。これに対して、AとA以外のものが対立以前の差異にとどまる場合、Aでないものは非Aではなく、Aと異なるBとして見られる。AにとってのB(同じくBにとってのA)は「差異」を表し、そこに「矛盾」は認められない。山内が指摘したように、両者はせいぜいのところ、一方にあるものが他方に(相互に)欠けているという「欠如」をもって区別されるに過ぎない。』
ーーー中沢新一
『インテリってのは、要は変態なわけだから、自身のその変態性を自覚して外連味たっぷりにインテリをやってれば、十分ポップになれる。』
ーーー+M
二項に基づいた価値観に執着する必要はない。もっと無数の選択が目の前には常に、既にある。
『フロイトが書いた論文の中で比較的短いものの中に「ユーモア」があります。その中でフロイトは、「ユーモア的な精神態度」は自分だけでなく、他人に対しても向けられるものだと言ったあとにこう述べています。
「すなわち、この人(筆者註:ユーモアを持つ人)はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。」
「ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである」』
ーーー上妻世海「制作へ」より
あとがき
ここまで読めば感じるだろうが、引用を多用した。名言にすがるセミの抜け殻の如く、それをそのまま、深意を知ろうともせず他人のものとして使用するのみならば、どんな賢人の文言も豚に真珠でしかなく、度し難いとしか言えない。だが、此度の引用文の数々、その著者達は、俺と同じような仕方でもって世界をみている。いや、むしろ彼らはもっと多次元的な見方をすらしているが故に、多くを学ばされている。換言するなら、我々は先述の、『田中語』のような、共通の言語を使うクラスタ(属性とかそういう意味)のようなものなのだ。日々の社会生活において常人と思わしき人々が見るその見方、ではなく、その見方の前提において、つまり、世界そのものについての見方が相対的に異常希少で、誰も疑問を持たぬような事について常にと言ってよいほど考え続けている。
論理体系がまだまだ未完であるが故に、思想、哲学の説明としては相当に不完全だが、ここにその "態度" は完全に明らかに出来た気がする。何より、きみの手紙を読んでいて感じたような、ある種スラスラとした、しかしなかなか他人に言わない部分を一度にさらけ出せるこの機会を、改めて心地よく感じる。そしてまた、こうして書いている間にも思考は変化、進歩している。あまりにも長文だが、「追伸」でも触れたように、気負わずに、スラスラと、思うがままに返事は書いてくれれば幸いだ。