文通(改訂版)

まえがき
 こんな事を、すべて書いた後で前書きで書くのもセコいのだが、スラスラと書いていたら長くなってしまった。文字数からすると、所謂論文といわれるものの五分の一もないくらいのボリュームだろうが、もはや原稿にして10ページくらいはあるかもしれない。しかし、後にも述べるが、この長文は、きみのひらかれた態度に感応してか、こちらもひらいた態度でスラスラと、一種隠すところのないものになっていると思う。
まあ、あまり前置きを長くして気負わせてしまうのも疲れるだろうから、ここらへんまでにして、極めて楽に、読めそうな時に読んでみてほしい。


本文
 "思考の海" と俺は呼んでいた。考えるようにして首をすくめ下を見れば、仄暗く、未知の世界がまるで無限に広がっているようだったから。そこは少し怖くもあり、しかしどこまでも潜って泳いでいくのがあまりに気持ちよくて、誰にも邪魔されたくない、そんな場所だった。
俺の場合、誰かの呼びかけや、バイオリズムの気まぐれでたまに水面から顔を出す。そうしてしばらくは水上か、島か、わからぬが、楽しむ。しかし、すぐに厭になって、あの孤独の海の快感に戻りたくなる。面は取り繕える。その程度の事は上手くできるくらい社会的な生活はしてきていた。その長続きしない取り繕いが、大抵は身体的にガタが来て、すぐに出来なくなる。こうなれば、キェルケゴールがどこかで言っていた気がするが、独りになるしかない。その孤独を個人的に知る者が誰かあれば、大洋にぽつねんと浮かぶ孤島の如く、その人は孤独の快楽の疲れが安らぐ場になる。しかし、これらを安らげる場が無いとなればやがては大洋の只中、泳ぐのを中断せねばならぬだろう。無限に泳ぐことはできない。その時、絶望に突き当たっていなければ、もしくは絶望の場にいなければパニックになるだろう。そして心から絶望するならばおそらくやがて死に至るだろう。
その、ふとした静的な時、泳ぎを中断した時、動的な全てが離れていく。思考する対象全てすらが遠くなる。四肢も顔も何もかも動かすことすら億劫で、離れていくそれら全てをただみるのみ。そこには、自分すら遠くにみえているようだ。ある種のメタ的視点(すまぬが適切な訳語がわからなぬ、調べてみてくれ)をその時得る。実はこれが啓蒙の第一歩だ。
こういうところにきて(私的抽象化をしたが)死をどう超越するかあるいは扱うかが、西洋哲学でいうニーチェやキェルケゴール、ショーペンハウアーという人達の哲学なのだが、実はかつて俺もずっといたその仄暗い海は、広すぎて表現が思いつかない程広い宇宙のうちの僅かなスペースに過ぎない。(そして静的には点、動的には波なのだと個人的には考えている。)
哲人たちの間ではもう議論し尽くされてきていてだいぶ明らかだと思うが、対立項的思考は、無限後退を生み、諦観や絶望の場に人を留まらせる。だがその思考形式すら、宇宙が海を包摂(安易な表現かもしれないが)するが如く、とある考え方に内包される。それが、"中庸" の考え方だ。
例えば以下のような逸話がある。

『フランスの哲学者サルトルは、ある時一人の青年に次のような質問をされた。
青年には老いた母親がいる。一人だけの兄は対ドイツ戦争に参加して戦死しており、自分のほかに母親の面倒をみることのできる者はいない。しかし、彼は兄のためにドイツに復讐したいと願っている。「自分は母親のもとに留まるべきか。それとも、自由フランス軍に身を投じてナチス・ドイツと戦うべきか。」これは、典型的なジレンマの例である。サルトルはどう答えたのか。
「君は自由だ。選びたまえ、創りたまえ。」これが、実存主義(哲学の一派)の立場をうちだしたとされる有名な答えである。つまり、同等にもっともらしい二つの考えに優劣が認められない状況では、いずれを選ぶかの「正解」は存在しない。
(中略)ここには、基盤を異にする二つの道徳に由来する二つの命令、「母親に孝養すべし」「レジスタンスに参加すべし」が、青年にとって等しい重さを持つ行為の可能性として現れている。だか、どちらを選ぶべきかを命じることのできる上位の原理は存在しない。かといって、何も選ばないという選択肢もありえない。彼の問いかけに対して、サルトルは「選びたまえ、創りたまえ」と返答することによって、この状況を確認するように要求したのみである。(中略)答えがない答えである、とも言える。(中略)だが、とある別の観点に立ったとき、まったく別の見方が成り立つ。サルトルは、Aかそれとも非Aか、という二者択一(前述の対立項的思考)に対して、中間に立つ道をしめしたのだ、と。』
ーーー木岡信夫「〈あいだ〉を開く レンマの地平」


私感だが、人はよく、是非にこだわる。選択に迫られたとき、白黒つけたがるのだ。どちらが良い選択なのか。それは完全にわかることはまずない。物理学(量子力学)的にいっても、事象は観測されてやっと確率は収束し、結果がわかる。つまり科学的説明としても、やってみないとわからない。(だがほっといても確率は時間的に収束する。)ところが肯否どちらかに寄りたがる。保留するのが不安だからだ。というのも、例のサルトルに質問した青年のように、それらの二項しか見えていないからだ。決して、二項しかないということはない。人もものも含めた無数の "それ" らは、様々なグルーピングはされるが、それぞれ固有のデバイス(人間からすると身体や物体)を見かけ上持ち、あらゆるものと固有の関わり方をしていて、同一の関係性のネットワークを持つものは存在しない。故に、是非の二極に両断することは本来出来ず(だからその間で苦しむ者もいる)、その無数の "それ" 固有の価値観があるはずであり、それこそは、是非の二極の中間の無数の地点のどこかなのだろう。決して、世にあふれる二項論法に惑わされる必要はないのた。
そも、善悪や是非など、時間とともに変わる。しかし、その事象自体は自覚的には別に変わらない。時間的にはそのように両立せずとも、事象空間的(この空間、そして関係性のネットワークはいつかまたの機会に。。)には両立する、いや、よくよく考えれば当たり前なのだが、両立しているのだ。だからジレンマや矛盾に苦しむ必要はない。そこに含まれる二項は既に両立しているのだから。
「我々は自由だ。選ぼう。そして創ろう。」

途中からきみで言う自分語と哲学用語の入り混じった、少し難解な文になってしまい、さらには流石に全て説明しようとすると何万文字もかかりそうだったので少し論が飛躍したが、とにかく、二項のトリックに視界を奪われず中庸を忘れぬ事だと思う。その肯と否の間の無数の点のどこかに、それぞれなりの表現があると、俺は考えている。繰り返しだが、正に「我々は自由だ。選ぼう。そして創ろう。」ということだ。



追伸
 上述したように、昔から思考の海を独り気ままに、考える快楽に耽りながら泳いでいたが、やはりずっと憂鬱で、10年以上、憂鬱と少しマシとを行き来しているような状態で、実際の未遂もあったが、ほぼ毎年、何度も死のうと思ったりするような様だった。ここ2年ほどマシだったのだけれど、どうもこの夏に来て身体にガタが来て、そこからまた鬱(正確にはいわゆる神経症による鬱症状)が再発した。しかし思考の海に独り、という訳ではないので4割くらい(笑)は普段通りで、こちらでも相変わらず週3くらいでは働いている。しかし、改めて、手紙というのは、スマホやPCとかのSNSやニュース等の速いインターネットと比して遅いインターネット(宇野常寛氏曰く)の一種であるからなのか、心にゆとりの持てる、また不思議な冷静な高揚感を得られるものだなと実感した。予想以上に、文通とは良いものだ。返信の待ち時間もなかなか悪くない。いくら長文になっても一向に構わない。文に根拠など要らない。じっくりと自由に創文してくださいな。

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付録
『山内得立によれば、この世界はさまざまな「差異」に満ちている。彼はその差異を、対立や矛盾ではなく、どこまでも差異としてとらえる立場をとろうとする。彼のイメージする現象学は、世界を、「差異」の相のもとに眺める理論的態度を要請する考え方である。世界に存在する事物Aとそれ以外のものの関係を、仮にAと非A(A')として見れば、非AとはAではないもの、Aのあり方を有しないものとなるから、両者はたがいに対立する。対立は、そのゆきつく先に両立不可能な関係、「矛盾」を想定する。AとA以外のものの関係を矛盾ととらえ、両者の相克を描き出す論理が、弁証法であった。これに対して、AとA以外のものが対立以前の差異にとどまる場合、Aでないものは非Aではなく、Aと異なるBとして見られる。AにとってのB(同じくBにとってのA)は「差異」を表し、そこに「矛盾」は認められない。山内が指摘したように、両者はせいぜいのところ、一方にあるものが他方に(相互に)欠けているという「欠如」をもって区別されるに過ぎない。』
ーーー木岡信夫「〈あいだ〉を開く レンマの地平」

この、ロゴス的論理といわれるものが大抵の現状を支配していてーーー皆の思考の大前提となっている、いわば貨幣(共通の価値観として皆が持つことで成り立つ前提の表現)のようなものになっている。しかし、例えば貨幣がハイパーインフレによって価値を失うように、ロゴス的論理もその限界を露呈していると言っていいだろう。これは論理の歴史、哲学の歴史をみていても最早言わずもがなである。だからこそ、前回の手紙でも書いたような、ある種、その皆の共通の価値観の外側のようなところから、その大前提となっているロゴス的論理をユーモアたっぷりに見てやるのが良いのだ。きみは既に自由に外に出られる。確かにそこは大前提という地盤を失った、ある種危険な自由の空間である。しかし、例に出るような偉人たち、太宰にしろサルトル等の哲学者たち、また引用文の著者たち、他にも数々の傑作を残してきた、それこそ夏目漱石や三島由紀夫や無数の文豪たち、一部の芸術者たち、さらには宗教家たちなどは、その、危険な自由のもとでこそ、無いものを創り出すのだ。決して有るものではない。そしてそれこそが、我々の人類史において度々人々を啓蒙してきたし、多数を確かに救ってきた。(法律、憲法、倫理、道徳といったものの元も、哲学である。だから哲学的、あるいはそういった事を考える事には、間違いなく有益な意味を持たせ得る)
だから、その危険を乗りこなすべく、ユーモアたっぷりで行こう。



『馴染めないってのは、要は変態なわけだから、自身のその変態性を自覚して外連味たっぷりに外道をやってれば、十分ポップになれる。』
ーーー+Mさん

二項に基づいた価値観に執着する必要はない。もっと無数の選択が目の前には常に、既にある。


『フロイトが書いた論文の中で比較的短いものの中に「ユーモア」があります。その中でフロイトは、「ユーモア的な精神態度」は自分だけでなく、他人に対しても向けられるものだと言ったあとにこう述べています。
「すなわち、この人(筆者註:ユーモアを持つ人)はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。」
「ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである」』
ーーー上妻世海「時間の形式、その制作と方法 田中功起作品とテキストから考える」




あとがき
 ここまで読めば感じるだろうが、引用を多用した。名言にすがるセミの抜け殻の如く、それをそのまま、深意を知ろうともせず他人のものとして使用するのみならば、どんな賢人の文言も豚に真珠でしかなく、度し難いとしか言えない。だが、此度の引用文の数々、その著者達は、俺と同じような仕方でもって世界をみている。いや、むしろ彼らはもっと多次元的な見方をすらしているが故に、こちらが多くを学ばされている。換言するなら、我々は『個人語』のような、共通の言語を使うクラスタ(属性とかそういう意味)のようなものなのだ。日々の社会生活において常人と思わしき人々が見るその見方、ではなく、その見方の前提において、つまり、世界そのものについての見方が相対的に異常希少で、誰も疑問を持たぬような事について常にと言ってよいほどそれも異様なかたちで(これが我が病的根源だろうか)考え続けている。
論理体系がまだまだ未完であるが故に、思想、哲学の説明としては相当に不完全だが、ここにその "態度" は完全に明らかに出来た気がする。何より、きみの手紙を読んでいて感じたような、ある種スラスラとした、しかしなかなか他人に言わない部分を一度にさらけ出せるこの機会を、改めて心地よく感じる。そしてまた、こうして書いている間にも思考は変化、進歩している。あまりにも長文だが、「追伸」でも触れたように、気負わずに、スラスラと、思うがままに返事は書いてくれれば幸いだ。

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