日本語と年功序列の相似関係
通常日本語で話すとき、
結論が最後に来る。
私は何々~で何々~をした。
あるいは私は何々~でしなかった。
つまりいくら話の途中を聞いたところで、
結末がyesの肯定文なのか
noの否定文なのか
そもそも何をしたのか
最後にならないとわからない。
英語では一般に
I do
I do notから始まり結論を先に言ってから、
その文章の説明が入る。
これは論文を書くときに結論を先に書くという事と相似している。
日本語よろしくだらだら説明文を書いてから結論に至るのではなく、
結論を書いてから、なぜそうなのかを説明する。
この文章も日本語で書かれているため、結論は最後の方に書いてあると思う。
日本はよく年功序列だとか、敬語が分かりやすく使われるだとか言われる。
これは日本語に相似していて、つまり、
「私はこれだけ生きてきた、これだけやってきた」
という前提、日本語の説明が先に入っており、
最後にその私は何々をするという語順になっている。
つまり、私はこれをするではなく、
これこれをやってきた私が何々をするという順序になっている。
そのため、会社であったり、年上の、あるいは偉い人と話すとき、
偉い人であるという前提がまず存在して、
年下、あるいは平社員との前提に差が生じているため、
「私は(人生たくさん色々やってきた偉い私は)これをする」
「私は(平で経験も何もない私は)これをする」
という風に言語外の前提を含んで話をするために、
同じレベルで話をしているつもりが、
無意識のうちにその人個人の存在という前提で補強された結論へと導かれる。
英語においては結論はその個人の意見として、
一番最初に前提無しで出てくるため、
その人の存在がどうだからという前提はとりあえずない状態で会話される。
なので会話は割とフラットにされる。
日本においてディベートが活発になされないのは、
Aを支持する、あるいはBを支持するというとき、
会話の語順として、
「私はAを支持する、何故ならこうだから」
ではなく
「私はこれこれこうだから、Aを支持する」
という風になってしまい、
ただのディベートがその人の性格であったり、
自分という個人による前提でもってとみなされやすくなるため、
つまりその人が属するという事でそれを支持するという順序になってしまい、
なぜそうなのかという説明、理論でもって対決するべきなのに、
その人だからという、前提条件に埋め込まれていしまうことで、
意図せぬ対立を生み出しやすい。
もちろん英語等が完全にフラットかというと、もちろんそんなことはないし、
他の言語のサンプル数が多くないため比較として十分ではないが、
日本語というのは語順の関係で、
イエスかノーか、白か黒かを先に決定して物事を語らず、
その人の存在や性格という前提でもってこれこれこうなんだよ、わかるだろ?
といういわゆるグレー風になりやすく、
英語等と比較すると、
言語による性格でもって、その人がどういった存在であるか、前提条件として大きくかかわってくる。