哲学的な思考の備忘録 運動について3
人間の運動というのはそれほど難しい運動でなければ、ほぼ意識しないで動かせます。
歩くという時、右足を出し、左足を出し、上半身を安定させ、手を振ったり、重心移動したり。
無意識的に倒れないようにバランスを取りながら歩けます。
言語を覚えるように、覚えてしまった後は、特別難しいことなく、ほぼ自由に使いこなせます。
ほぼ無意識の上で直接目的(話す内容、話したい事など)に届いていて、そこで意識的な活動を行っていると考えられます。
この無意識の領域というのは、無意識であるために、後からそうだったかも、と確認することはできても、
「正に動いているその時」というのは、無意識であるという事によって省略され、認識することはできないのではないでしょうか。
またそれが無意識であるという状態ではないでしょうか。
言語論理を使っているとき、基本的に一つの話、論理でしか会話したり、書いたりできないというのと、
意識するといった場合の注力の仕方はある種似ていないでしょうか。
意識する、注意する、集中する、といったことは正に「一つの事」のみに注力するのではないでしょうか?
一つの事のみに集中してしまう、意識してしまうために、他の感覚などがおろそかになり、何かに気づかなかったり、うまくできなかったりする。
言語論理と同じく、多元的な世界を理解するのに意識によって一つの事に注力すると、他の感覚が他の全部が動いているのにもかかわらず、その意識のみが重要であると思い、その論、その考え、その感覚が正しいと思い、一つの事に固執してしまう。
なので言語を道具と例えたように、
意識というものも道具の一つであって、
万能ではなく、それにはなんらかの使い方があって、ある場面では役に立つが、ある場面では役に立たないと言えるのではないでしょうか。
哲学批判、言語批判において、
言語で世界を説明するには不十分であるという前提でもって書いているこの文章はそもそも不十分であるのですが、
自由に使えると思っている意識でもって色々な運動を考えていくというのは、
これまた不十分なものなのではないかと考えられます。
そう考えると、前回書いたように、意識そのものが重要なのではなく、自然に動いている無意識の領域、そういったところを整えていくことが重要なのではないでしょうか。
無意識の状態というものを考えると、まず考えられるものは
「運動する、あるいは行動する」
というそのこと自体です。
怪我や病気でない場合、右手の親指は無理なく曲げられると思いますが、
意識的に右手を動かすと考えられますが、そもそもなぜ動いているのか、というレベルの知覚、
何を起点に、どうして人差し指ではなく親指の感覚だけでもって動かせているのかというそのこと自体は、無意識的に省略されています。
科学的に言えば、脳から電気信号が流れて、神経が、筋肉が収縮等をして関節の可動範囲で動いていると言えるかもしれませんが、
「動いているそのこと自体」は先にも書いたように無意識です。
なので根源的な無意識の領域に
どう動かすかとここで色々思考している「運動そのもの」がそこに含まれていて、それ以上踏み込むという事が、非常に難しいことになっていて、
言語によって説明する場合、
「運動すること、行動すること」そのもの自体が問題であったにも関わらず、
その答えは「運動すること、行動すること」によってしか説明することがほぼできないのではないでしょうか。
しかしまあここで論じようとしているのは一般的な運動ではなく、
意識をいかに使うかという事で、運動がより早く、より良く習得できるかという事です。
意識の使い方によって運動や行動の感覚が変わるのは確かです。
これはそれほど難しい運動でなくすでにある程度無意識の領域ができている運動ですが、
例えばランニングをするとき、特に考えずに走ると無意識に楽な姿勢で走るように思います。
しかしそれでは良くないと、他人の経験の教えに従ったり、科学的な本を読んでみたり、あるいは自分で考えてみたりして、フォームを変えたりして走ったりします。
そのフォームは初めは意識しないとすぐに崩れてしまうので、そちらに意識がいってしまい、すぐは足を出すスピードが遅くなったりパフォーマンスが下がるでしょう。
しかしそのフォームがその人に合っていれば、無意識の状態であった前段階の姿勢やその他の事について意識したことで、より良く走ることができるかもしれません。
またそちらに意識を向けることで、それ以前に意識を向けてしまっていたところが無意識状態になり、なんらかの意識を向けるべきでない場所であった場合、
それによってパフォーマンスが向上するという事もあり得ます。
これからできない事、運動を習得する場合考えられるのは、
意識の段階を先に先に持って行ってしまうというのは確かに一つの手であると考えられます。
つまりその段階、自分のできる段階をただひたすら練習するのではなく、
意識によって到達すべきと思われる段階を想定して練習していく。
例えばブラインドタッチなら、なるべく下を見ず練習する。
ギターならメロディそのものを聴くようにして弾く。(音感がないと無理ですかね)
ランニングならただ走るのではなく、時間制限を決めてその時間内に入るように走る。
例えばサッカーや野球など(と同じにしていいかわかりませんがテレビゲームの対戦など)を考えると、
弱い相手と100回戦っても、弱い相手なりの戦い方しか身につかず、それほど上達しません。
それなら勝てないくらいの強い相手と5回でも戦った方が上達するでしょう。
ただただ繰り返すだけでなくそれにあった練習、上を見た練習をした方が早くしかも良く上達するのは確かです。
なので相手がいる場合、相手を自身より格上にすることで、意識が先に先に進むことで、上達が早くなるかもしれません。
相手がいない場合、自らの意識の持ち方を変えなくてはならず、先に先に向けていかないといけない。
しかし、一人である場合どうしても難しいのは、一人であるがゆえにどこが目指すべき到達点であるか?
100のうち50まで知らなければ、50を最高として目指して、そこまでしか到達できないかもしれません。
なんらかの目標を設定してしまう事で、そこを到達点として認識してしまうために、それ以上行くことが難しいという事がないこともありません。
甲野義紀氏は過去の人間は今の人間より、より良く動けたというようなことを研究し、本に書き、また自身でも活動されています。
科学によって、あるいは肉体を使う必要がそれほど必要ない時代で、50が通常の到達点であると言われている場合、もちろんそれ以上行くことはほぼ不可能でしょう。
しかし、逆にこの生物にとって逸脱行為である意識の使い方によって、
今現在通常考えられている限界、到達点というものが、もしかすると多少の無理を含みつつも、過去の人々にとってはもっと高い次元で考えられていたと考えれば、それはあり得ない事でもありません。
現在ではほぼ考えられない生き死にが目前にある生活において、人より先に先に行く必要があるために、火事場の馬鹿力ではないですか、そこを常の到達点として、研鑽したと考えるのは何ら不思議ではありません。
いわゆる常識のレベルでは理解できない次元に意識が向いていることで、日本の昔の職人という人たちはいたでしょうし、さらに先に意識を向けるという正に神業というレベルの人間もいたでしょう。
そういうことを考えると、運動する、行動するという事の繰り返しによってのみ上達すると考えられる運動そのものは、
意識によって目指す場所を与えることによって、意識することそのものではなく、それによって付随する運動、無意識の段階を押し上げることによって、さらなる上達、より良い上達というものが見込めるのではないかと考えられます。