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君の言いたいこと、分かるよ。【これも? 聖書のお話です。】

はじめに

アプリやサブスクの、チェックして「同意します」の文章を、全部読んでいる人ってどれくらいいるのでしょうか?

聖書:「主よ、お話しください。僕は聞いております」サムエル記上3章9節

聞くのって大変。

大学院の演習でCPE(Clinical Pastoral Education:臨床牧会訓練=牧師になるための対人訓練のひとつ)を受けた時、「聞く」ことって、ホント大変と思いました。

病院や老健施設に派遣され、初対面の患者さん(入所者さん)と10~20分、なんの手掛かり(本とか写真とか)もなく、会話を成立させないといけなくて、「お加減いかがですか?」というような問い掛けからスタートします。

訓練の中では、自分が「何を話すか」よりも、相手の言葉を「どう聞くか」が問われました。自分本位ではなく相手本位に聞くことは難しい。そして、いつもどんだけ自分本位で会話しているかを思い知らされます。

「傾聴」するとは、相手の真意を知ろうと耳と頭に神経を集中させることです。言葉の仕組みから考えると、耳から入って来る情報は欠落だらけです。

そもそも「言葉」とは、人の頭の中にある感情や思考を、伝達可能な情報単位に加工・圧縮して発せられるもので、感情や思考が「言葉」になった時点で、ある一定の情報量は、その伝達し易さを優先するために適宜削減されています。

ちなみに、「伝達のし易さ」を諦めて、情報の正確さ・完全さに全振りしたものが、契約同意書とか法律条文とか哲学書とかになります。あのめっちゃ長い文章です。

極力誤解を避けるために、いちいち法律条文みたいな会話するなんてことは、無茶ですから、ここぞという時には、語られる言葉に耳をしっかり向けて聞き漏らさず、聞えてきた言葉を一生懸命に頭の中で吟味・再構成して、失われた情報の復元を試みます。

そういう努力を含めて、「傾聴」と言うのだと思います。

そして、自分が理解できた内容は、「私が独自解釈したものだ」と弁えて、相手に確認する丁寧さもあって良いと思います。それは、対人関係においても、対神関係においても一緒です。

神様の御言葉と言っても、それは人間に理解可能な「言葉」という加工・圧縮された情報単位に過ぎないわけですから、その御言葉の背後にこそ、神様のもっと豊かで奥深い御心(真意)があるはずです。その御心を知るために、牧師は御言葉を吟味・再構成して「これでいいよね、神様?」と祈りつつ、「説教」とするわけです。

神様の御言葉も、聖書も「傾聴」しなければ、情報の欠落した文字列に過ぎません。自分に向かって語られている言葉の真意はなんだろう、と思い巡らせ傾聴することは、人に対しても、神様に対しても、とても重要であり、極論、人が物心両面の豊かさを保ち、平和に暮らすための必須スキルだと言えます。

ーーーーここまで。

時には、分かり難い鈍らな言葉に触れるのも、心の癒しになるかも知れないですよね。格好良い鋭利な言葉が、最近、多いですから。
発信する側としては、なめらかさを感じる言葉の丸みを磨けたらなぁ、と思います。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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手探り牧師
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