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実践的宗教論①| 不幸の捉え方。〜神様の管理下にある不幸〜|

はじめに

手探り牧師と申します。

今回は、不幸な出来事に見舞われた際に、こんな風に考えてみるのは、どうか? というお話を、キリスト教の視点からお届けします。

「なぜこんな理不尽なことが起こるのか?」
と問うた経験は、きっと誰にでもあるはず。

しかし、聖書には「神が悪霊を送る」という不思議なお話が記されています。これは、どういう意味なのでしょうか。

人生をより楽しく、自由に生きていくための考え方を、シリーズとして探求していきます。

「神からの悪霊」という発想

主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」 サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」

旧約聖書 サムエル記上16章14〜17節(新共同訳聖書より)

この聖書記事は、古代イスラエル国家の最初の国王であったサウルに関する報告です。サウル王は、この時、「主から来る悪霊」「神からの悪霊」に苛まれていました。

この話を初めて読むと、「え?」となる人も多いと思います。意外性のある組み合わせです。でも、「神様が悪霊を送って、人を困らせる」ということが、さも当たり前のように書かれているわけです。

私たちの一般的なイメージでは、「神様は良いことしかしない」「良いことをするのが神様だ」と考えがちです。しかし、この聖書の記述は、その前提を根本から覆します。

「なぜ神様がいるのに、世界には不幸が起こるのか?」

そのような問いに対し、「そういうこともある」と、まるで当然のように語るのが聖書なのです。

良いことをしない神様なんて要らない?

確かに、自分にとって、あるいは人類にとって、良いことをしない、悪いことをする神様を慕い求める理由は見つかりません。そんな神様要らないという結論が妥当です。

しかし、神様が居る居ないという議論に、私たちにとって神様が要るか要らないかという論点は、意味がありません。人間の要請に従って、言動を整える神様なんて、全知全能の存在とは言えません。

ただ、実際のところ、多くの宗教や、宗教的慣習においては、人間の方の都合によって、神を定義し、形作るケースが多く見られます。豊穣の神と言って、乳房やお腹を大きくしたり、戦いの神といって筋骨隆々に仕上げたり、学問の神といって算盤を持たせたり。それらの神の姿というのは、人間的な発想によって造形された哀れなものという見方もできます。

ボトムアップ的に神を作り上げても、それは人間の思いや考えに限定された、全知全能とは程遠い存在です。人間理性、倫理、道徳の及ばない、はるかな高みから、ただ自らの理念によってのみ言動を制御されるのが、本当の神様であると言えます。

良いことも、悪いことも神様の所為にしたら

いっそ開き直って、悪いことも神様の所為にしてしまいましょう。戦争も、災害も、差別も、格差も、不条理も、喧嘩も、無理解も、不寛容も。

考え得る悪いこと全部、神様の所為。

そして、神様に訴え出ればいい、問い詰めればいい。不平不満の全てを神様にぶつけたら、少しはスッキリするかも知れない。旧約聖書の詩編には、多くの嘆きや不満の言葉が記されています。私たちの信仰の先人たちもまた、神様に対して心の中のすべてを吐き出していました。

その上で、悪いことも支配される神様、という視点を持ってみたいと思います。

悪いことも支配される神様。
悪霊なんてものを送りつける神様です。

不幸や悲劇は管理されているとしたら

そんな意地悪な神様なんて、見たくもないかも知れない。
でも、考え方によっては、次のような受け止めもできるのではないでしょうか。

目の前の不幸や悲劇が、手綱を解かれた凶暴な狼ではなく、よく躾けられた従順な羊であると思えるなら、私たちはもっと自信をもって生きて行くことができるはず。何が起こっても、それは全て神様の御業であるが故に、愛と希望が常に隣接している、と信じることができる。

ある日の誰かの説教原稿より。

あらゆる不幸や悲劇が、神様の所為ではないとするなら、それは、また別の、私たちの人生を狂わす存在があるということです。そして、その人生を狂わす存在に対して、神様が善処できないとなれば、それこそ絶望しか残りません。

私たちにとって最悪な事態は、あらゆる不幸や悲劇が、無制御に、目的を持たず暴れ回ることです。

そういう最悪の事態に比べるなら、この世に悪霊や悪魔といった存在を仮定して、それらの総大将、親玉としての神様が存在していることを信じてみるのは、安心に繋がると思います。

何が起こっても、すべての神様の御業。
神様の管理下における出来事。

そう思うことで、整理される感情もあるでしょう、きっと。
落ち着いて、不幸と向き合い、次の行動を冷静に考えられるキッカケにもなると思います。

目の前の不幸は、完全に無秩序な暴風ではなく、何かしらの意味と目的を持って管理されているものかも知れない。

「神様の管理下にある不幸」

そんな視点を少し取り入れてみると、これからの生き方が変わるかもしれません。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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手探り牧師
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