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「みんな」という呼びかけについて。|宗教雑感|
「みんな〜、元気〜!?」 「・・・」。
キリスト教に関わる生活を始めて20年程になります。
未だに、高校の頃、最初に触れたキリスト教の言葉に対する違和感を覚えています。いや、言葉に対する違和感というより、その語り方に対する違和感ですね。
すぐ目の前にいる牧師が、一生懸命に語ってくれるキリスト教の言葉。素晴らしい言葉、良いお話。
しかし、私の心には全く響きませんでした。
何故なら、その言葉は、別に私に向けられた言葉ではなかったからです。
おそらく、キリスト教や他の宗教などでも、非常に有難い言葉が日々生み出され、発信されているかと思います。立派で、尊く、愛に満ち溢れている磨かれた言葉。しかし、その宛先は、私じゃない。
私ではない他の誰かに向けられた言葉が、教会から溢れるように発信され続けています。
もちろん教会は大真面目に本心から「全ての人に向けて」語っています。一人も例外なく、みんなのことを思って、大きく腕を広げて。「さぁ、聞いてください」と。
けれど、冷静に考えるなら、そんな対象を絞らない無節操な語り掛けに、向こうから興味を持って応えてくれるだろう、と考えるのは教会の酷い勘違いだと言えます。
私が属する教会でも、幼稚園でも、一人の牧師園長が、大勢の聴衆に対して語ります。「私たちは~」とか「皆さまは~」とか「ここにいるみんなはね~」とか「お友達はさ~」とか、そういう不特定多数に向けた言い回しにななってしまいます。
それは神様の愛の大きさと、招きの広さを物語る表現でもありますが、でも、聴く側としては「私たち」って誰のこと? 「みんな」って誰のこと? 「え? 私? いやぁ、私は、別に・・・」と思う人もいるでしょう、きっと。
個が尊重されるべき時代、聖書の語り方ひとつ取っても変革すべきなのかなぁ、と感じています。
新しい語り口、伝え方、届け方、見つけられるよう精進します。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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